2017年03月18日

朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ

朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ

 教育勅語が下賜されるに至ってはいわゆる徳育論争に一つの決着をつけるためであったが、杉浦重剛は明治以降の「燦爛たる文明の華を開けり」という風潮の中で、「官民共に欧風に心酔し、一も西洋二も西洋と称し」て「我が国固有の文明も、世界無比の歴史的精神も、殆ど顧みるものなく、正に思想界の危機に瀕せり」という状況を危惧したからだという。そうして「我国の歴史的精神、国体の精華、及び凡て是れより出発する国民道徳の大本を教示」したのが教育勅語なのだと位置づけている。後付けではあるがそのように位置づけることは当然のことであったと言っていいだろう。
 そして杉浦は「朕」について説明する。国民道徳協会の訳では「私は」と訳している。果たして「朕」は「私」なのだろうか。「朕と称し得らるゝものは一国に一人を限りとし、複数を許さゞるものとす」と言う。これが正しい。我々一般人が「私」と言うのとは意味が違うのである。高橋源一郎が「はい、天皇です。よろしく。」と訳したのは軽い表現になっているが、正しい。語っている主体が単なる個人である「私」ではなく、天皇であるということを示さねば正しい訳にはならない。国民道徳協会の訳はそのことを隠蔽し、あたかも天皇を私たちと同じ「日本人」だと誤解させる訳だ。
 次いで「我カ」の説明となる。杉浦はこれは複数形であり、英語ではourと訳しているとしている。そして、「『朕』と今この『我カ』との二字によりて、日本国の国体の特色を示し給ふ」と解釈する。それは「日本の一大家族制なる事を示す」と言い、家族国家観に基づくものだとする。杉浦は「先の『朕』にて皇位の犯す可からざる絶大の威力を示し、今この『我カ』にて民を赤子とする温情を示し給ふ」ということだ。なので、訳としてはこの「朕」と「赤子」の関係を示す表現を入れなくてはならないだろう。
 「皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ」についてである。「皇祖皇宗」とは「天皇陛下及日本国民の御先祖」を指すものだという。それは「太古、天照大神は高天原に君臨し玉ひ、更に此の国土を統治せしめむとの御心より、天孫瓊瓊杵尊を降し給ふ」云々という神話的歴史を認めることを前提としている。
 「徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」について杉浦はまず「樹ツル」の意義から述べる。それは「我国肇国の特色」を現し、「植付くる」の意味だという。「我国の御先祖は恰も樹木を植付くるが如く、人民に徳を植付けられたり」と言うのだ。これは「弱肉教則の法則に従ひ」国民を屈服させてきた外国とは異なり、「我日本国の天皇は」「仁愛を民の心中に深く厚く植込み給ふを以て、君臣の関係自ら牢乎として抜く可からず」即ち天皇が仁愛を民に植え込んだ、それ故に民は「悦服」つまり、心から喜んで服従するのである、という意味になる。国民道徳協会の「私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。」という訳にはこのような天皇と国民の関係は意図的に避けたとしか思えないくらい盛り込まれておらず、「道義国家」なるどこにも存在しない言葉を捏造して訳語にしている。これは教育勅語の本意に違う訳ではないか。
 「道義国家」については、問題が大きいので別に論じたい。
ともかく訳としては次のようになるだろう。

天皇である私が考えるに、私と私の子である国民の御先祖様が此の国を造ったのは天照大神以来の神話に由来するものであり、そこで天皇の仁愛を以て国民に徳を植え付けてきたということである。
posted by 新谷恭明 at 23:56| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする

教育勅語をきちんと読もう

 教育二関スル勅語、通称教育勅語を無教養な大臣が誤訳ものを読んで語ったという。誤訳と言っては失礼かもしれない。国民道徳協会というそれなりの組織が責任を持って訳されたものだろうからだ。しかし、この国民道徳協会の訳であるが、例えば、冒頭の「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」のところを「私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます」と訳している。そこからどうにもしっくりこない。なぜしっくりこないかというと「朕」と「我カ」との間の関係性が示されておらず、天皇と国民があたかも対等であるかのような表現になっている。
 また「道義国家の実現をめざして」というのは原文のどこからも読み取ることはできない。あたかも天皇制国家を否定しているかの如き感がある。そのようなものをテキストとして此の国を護る任にある防衛大臣が教育勅語を理解しているとしたならば、それは由々しき事態であるし、この訳で教育勅語を理解したものが「教育勅語にはいいことが書いてある」などと言って世間に喧伝しているのは此の国を枉げるものでしかない。
 重要なのは教育勅語を正しく読み、その上で教育勅語に対する考えを申し述べるべきではないのか。殊に国粋派と思われる人たちが、安易な口語訳に依存したり、本来教育勅語が言われんとしていることを曲解して語っていることはそもそも此の国を貶めるものであるし、教育勅語を否定している人たちも単に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」だけに過敏に反応するようなことでは水掛け論の域を出ないのである。
 ついては手元にある杉浦重剛著『倫理御進講草案』から本来の趣意を学んでいきたいと思う。これは杉浦重剛(いまさら説明はいるまい)が「東宮殿下に奉侍して倫理を進講すべきの命を拝したる」(同著一頁「倫理御進講の趣旨」)という事情から、皇太子のために作成したテキストである。皇太子とは後の昭和天皇のことである。最初世に出たのは御進講を拝命した大正三年であり、今回参照しようとしているのは昭和13年刊行の戦時体制版である。

posted by 新谷恭明 at 11:08| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする

2017年03月10日

女子大生は本を読まない?

 先ほど紹介した大学生協連合会の読書時間調査で面白いのは、男女別のデータである。

男女別読書量

 男女差を比較するなんていうのは、男女共同参画の時代に問題ではないか。というのが最近の傾向だが、データに顕著な数値がついてくれば、その意味は性差別を改称するためにも必要なことであろう。この表を見ると2005年までは女子のほうが読書時間が長かった。前回紹介した1960年の記事では「男女別で見ると、女子のほうがいくらか読書人が多く」とある。子細は元になっている日本読書学会『読書科学』31号を探してみてくれればいいが、その傾向が続いていたのか、あまり意味をもなかったのかは途中のデータも見なければわからないからなんとも言えないだろうし、あえて論じようとも思わない。
 問題はその後である。2006年で女子の読書平均時間数が男子と逆転して下回り、読書時間ゼロの数値も2008年に女子が男子を抜き、その差は開いている。そして2016年には女子の読書時間は限りなくゼロに近くなっている。
 2015、2016年とこの問題に関して数値が急激に悪化しているのは女子の数値の変化に依るものであると思われる。これはデータをとるときに何か事故があったか、さもなくば男女共同参画もジェンダーフリーもなんのその、女の子が莫迦な女に堕ちていっていることを示してはいないか。信じたくはないが、【図表21】の右端の意味を理解しかねている。
posted by 新谷恭明 at 16:27| Comment(0) | 研究雑感 | 更新情報をチェックする