2016年10月23日

小中一貫教育の陥穽

 県教研なるものが昨日今日と県内某所で開催され、僕は「保護者・地域と連携した教育活動」という分科会の共同研究者として参加した。この分科会、以前は二つか三つの分科会を統合してきた分科会であり、以前の分科会が扱っていた何でもありの分科会なのである。
 レポートは4本しかなかったが、それはともかく、今日出た論議の中でおもしろいことを発見した。中学の美術科の先生が小中一貫校での経験を語った時のことである。
「小学校の先生の図工を見ていたら、とても自分には無理だと思った。」という発言である。
 それは好き勝手に図工の時間を楽しんでいる子どもたちを見守っている小学校の先生たちのやり方に自分ではそうしたことはできそうにない、というものであった。理由の一つは小学校の教師に対する敬服であり、もう一つは美術教師として小学校の図工の意味が理解できないということのようであった。その話を聞いたところではたと気づいたことがある。
 先日の教育課程論の講義に於いて経験主義と系統主義について説明した時、地理的な学習について、小学校の社会科では「自分たちの住んでいる身近な地域や市(区,町,村)について」から学び始め、「世界の中の日本の役割について,次のことを調査したり地図や地球儀,資料などを活用したりして調べ,外国の人々と共に生きていくためには異なる文化や習慣を理解し合うことが大切であること,世界平和の大切さと我が国が世界において重要な役割を果たしていることを考えるようにする」という流れで学んでいくことになっていることを話した。方法的にも「身近な地域や市(区,町,村)の特色ある地形,土地利用の様子,主な公共施設などの場所と働き,交通の様子,古くから残る建造物など」調べていくところから始まる。
 一方、中学校では「地球儀や世界地図を活用」した「世界の地域構成」から学び始め、「身近な地域における諸事象を取り上げ,観察や調査などの活動を行い,生徒が生活している土地に対する理解と関心を深めて地域の課題を見いだし,地域社会の形成に参画しその発展に努力しようとする態度を養う」「身近な地域の調査」に至るという学ぶ順序になっている。
 順番が逆なのは、小学校では身近な地形、施設、建造物など自分の感覚でつかめるものから入り、世界平和に至るもので、子ども自身の見聞きしているという体験を入り口とするいわば経験主義に基づいており、中学校はまず「地球儀や世界地図」という観念的世界を枝分けしていって身近な地域に辿り着くというように系統主義的な発想で編成されている。
 その段階では小学校と中学校のちがいを説明することより経験主義と系統主義のちがいを説明するに止まったのだが、今日はそれが小学校と中学校のちがいとなっているということの意味に気がついたのである。中1ギャップとか言われるものは小学校と中学校の教育課程の基本的な構成原理が異なっているのではないか。
 そうすると現場の教師たちからも
「小学校の先生とはいつも議論がかみ合わない」
という意見が出てきたのである。
 重要なことは、昨今流行の小中一貫教育、小中連携教育というようなものが、例えば、1234年/567(中1)年/89年という学年の分け方をして何かギャップをなくせたかのような編成にしているが、それでは問題は解決できないと言うことだ。教育課程の編成原理が異なるのだからそれを修正しないと問題の解決にはならない。小中一貫校ないしは連携校でそれをしているところはあるかと訊いたけれど、どうもなさそうであった。
 小中一貫で教育をしようと言うのならば教育課程の編成原理を9年間通して作り直さなくては全く意味をなさない。ただ、六年生から七年生のところで躓くことは変わらないし、同じ学校ならばよけい混乱するだろう。そのような教育課程の再編を行わずに物理的な空間や人事だけをいじったところでそれは教育行政の自己満足以上のものは生み出さないだろう。そこで迷惑するのは子どもたちでしかない。
 ていうか、そのような教育課程を再編成し直し、教科書を書き換え、という作業は現場で簡単にできるものではない。まずは一貫校用学習指導要領をつくるべきなのだ。そして教組の各支部は市町村の教育委員会に、都道府県教組は都道府県教委に、そして日教組は文科省に、教育課程の再編を要求するべきなのだ。
 教研活動とはそういうものではないか。現場からすごいことを教わった1日であった。
posted by 新谷恭明 at 23:17| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする

2016年10月13日

日教組の道徳教育観  人権尊重を中心とする基本―道徳 その2

 と言うことで各論に入る。
1.生命の尊重
「…おたがいのいのちを大切にしあうこと、より具体的には人を傷つけない、暴力をふるわない、けんかをしないとともに、いたるところで危険のおそれを慎重にとりのぞくこと、生命を軽視しないことをしっかりと訓育しなければならない」
2.自由と幸福(民主主義)
「…自由と幸福の問題は人権尊重の基本である。われわれがこれまでの生活指導運動のなかで、力をこめてとりあげてきた人間差別の問題―男女・長幼・優劣・美醜・貧富・人種の間におこる差別の排除や、進学児と就職児との反目の除去などは、いずれも、たしかな訓育として実践してきたのである。
3.労働愛
「…盗みをしてはいけないということは幼児からしっかり訓育しなければならないことであるが、その根本は労働の尊重ということにあるのである。
4.文化愛
「…あらためて民族文化の措置をこうじ、若い世代に正しく伝統的業績を示すことが必要である。とくに現代学校においては、これらの文化をまなびとる学習活動への集中をはかることは、それ自体が道徳教育の一部であって、…」
5.民主的団結
「…現代的な貧困と疎外の問題を克服していくためにはいっそう民主的・国民的な統一と団結が実現しなければならない。このような統一と団結のモラルが、いわゆる集団主義モラルである。」「…したがって子どもたちにも、その要求をくみあげ、要求を集団の討議で目的に転化し、目的の実現にむかって行動を組織するなかで、相互の批判と援助、分担と協力、集団の秩序ときまりなどの訓育をするとともに、集団の物理的・知的・道徳的な力を自覚させていくことがたいせつなことである。
6.民族愛(祖国愛)
「今日の支配階級は、周知の通りいまさかんに愛国心を中心とする道徳教育の振興をはかろうとしているが、そりはここにのべてきている矛盾に目をおおい、現支配体制の持続をはかるものであるが、それに対して、われわれは、民主的国民権力の樹立と完全独立の達成によって真の民主主義を実現する意味における「国」づくりにはげむ「愛国心」をこそ育てあげなければならない。しかし、わたしはこの項目を「愛国心」とはかかけず、「民族愛」としたのは、権力側の使用語句をさけたというだけではない。それ以上に、わが国の民族的伝統を真にうけつぎこれをたいせつにしていくのは、じつはわれわれ国民大衆以外にはないという考えをもっているからてある。」
「われわれにとっての民族愛とは、日本民族が真の民主主義を実現するために、民主的国民的な権力をうちたて、完全独立を実現し、民族の文化と伝統とを尊重する態度や行動としてあらわれるものだということになるだろう」
7.平和愛好と人類愛

※この項を読んでくると、「訓育」という言葉が朱字で示したように生命の尊重、自由と幸福、労働愛、民主的団結の各徳目に登場する。問題はこの訓育の方法には触れていないことだ。そしてすでに引用したところであるが、「子どもに正しく生きることを求めるまえに、われわれ自身がまず正しく生きなければならない。このことを前提としないで、われわれは道徳教育にとりくむことはできない。」というような〈師の背中を見て育つ〉という古典的な人格論が底流にはあるとみることができる。
 また、「民族愛」に関しては違和感を覚える。人為的な構成体である国家に対する「愛国心」という言葉を避け、「わが国の民族的伝統」という非選択的な「民族」に重きを置く発想を当時の日教組内では持たれていたということである。しかもあらゆる民族というのではなく「日本民族」と明言しているのである。そのような民族的マジョリティの金看板を掲げている民族主義が少数民族に対する配慮をどれだけ持ち得たのか、そこは興味深い。
それにこんなことも書いている。
「たとえそれが教育勅語にかかげられた語句だからといって、もはや時代が変わったから不必要だということにはならない。たとえば、『兄弟二友ニ夫婦相和シ』は生きている。いまもその必要がある」(七三頁)
posted by 新谷恭明 at 14:20| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする

日教組の道徳教育観  人権尊重を中心とする基本―道徳

 ここまでくると、わたしたちはあらためて人間が生きるということ、生き抜くということ、いや、尊重されて生きるということ、幸福に生きるとは何なのかということを、その長い歴史にかけて根本的にといただすことん゛必要になってくるのではないかと思う。
(日本教職員組合『道徳教育シリーズNO-1 総論』64頁)

※いよいよ個人の問題に入ることになる。挙げているのは4点。それらを「四つの人間的生」と言い、「現代のわれわれにとっての基本的な道徳」(同65頁)はこの4点の充実なのだという。
  ①原初的な生死、生存の問題
  ②人間中心主義 自由と希望
  ③労働と文化
  ④集団生活
 そして以下の7項目を挙げる。
  1.生命の尊重
  2.自由と幸福(民主主義)
  3.労働愛
  4.文化愛
  5.民主的団結
  6.民族愛(祖国愛)
  7.平和愛好と人類愛
 やや驚きの念を感じるのはこのあたりだ。この冊子の初版は1964年、手元にあるのは再版本で1968年の発行だ。個人的な話で恐縮だが、少なくとも1969年に於いて僕自身はナショナリズムについて悩んでいた。ここに何のためらいもなく「民族愛(祖国愛)」が出てくることに当惑するのだが、これは日本共産党系のイデオロギーが入っているのだと考える。
 
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2016年10月12日

日教組の道徳教育観 基本的人権の尊重を中心とする、民主主義道徳

・・・ひとくちに現代道徳の目標と内容とは何であろうか。・・・
・・・それはもわたしたちが、日本の教育を考える時のよりどころとすべき日本国憲法と教育基本法とが、そのなかに一定の道徳思想および体系を示しているからである。
(日本教職員組合『道徳教育シリーズNO-1 総論』57-58頁)

※なるほど、日本国憲法と教育基本法を道徳教育の目標に持ってきたか。修身科をどうしようかというときに「公民科」に統合すべきだという公民科教育刷新委員会の考えの延長線上にあるとみていいのかもしれない。社会道徳の面を「よりどころ」にしている。しかし、これだけでは限界がある。それが天野が、もしくはブレーンの高坂正顕が『国民実践要領』に書き込みたかったことなのだろう。『国民実践要領』では「個人」「家」「社会」「国家」の順に徳目を語っている。天皇から始まるのではなく、個人から始まり、天皇そして人類の平和にいたる。
 また、文部省が特設道徳で盛り込みたかった内容は以下の4領域であった。
  主として「日常生活の基本的行動様式」に関する内容
  主として「道徳的心情,道徳的判断」に関する内容
  主として「個性の伸長,創造的な生活態度」に関する内容
  主として「国家・社会の成員としての道徳的態度と実践的意欲」に関する内容
 これもまた、身のまわりから始まって国家の一員にいたる道徳的な内容を学んでいく構造になっている。こちらでは天皇は登場せず、世界でまとめられている。形としては修身科から公民科へ発展する形だ。
 しかし、日教組のこの冊子では日本国憲法と教育基本法では修身科的徳目、つまり身のまわりの個人的な道徳の部分が欠落していることになる。
posted by 新谷恭明 at 23:48| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする

日教組の道徳教育観 民主的道徳内容の自覚化の必要

 ここに一貫して流れているのは、子どもの人格的道徳的発展の目標をつねに社会の政治的経済的過程とのかかわりの中で具体的にとらえようとしてきたこと、それをもっとしぼっていえば、社会のうちにある非人間的な力とたたかって人間の幸福をつくりだすことのできる力を育てようとしてきたこと、しかも、それを観念的にコトバによって教授するのではなく、子どもとその集団が現にもっている矛盾の自覚化と、この矛盾をみんなの力で克服しようとする集団の目的追求活動の中での人格的努力とによって結果として道徳的生長をはかるという訓育に集中してきたことである。
(日本教職員組合『道徳教育シリーズNO-1 総論』55頁)

※しかし、具体的な実践は浮かんでこない。集団主義が教研から生み出され、一つの基本的な考え方として流布していったことはわかるが、「いわゆる集団主義教育の方法論的偏向については、すでに一部から強く疑問が出されていた。」(同54頁)と言うようにその方法には教組内部で温度差があったということを吐露している。しかし、方法としては批判はあっても集団を基本単位として道徳教育を模索していた。ではその内容についてはどうかというと「社会のうちにある非人間的な力とたたかって人間の幸福をつくりだすことのできる力」といった具体性に欠く〈資本主義の矛盾から出てくる不幸〉以外には出てこない。なので、「民主的道徳内容の自覚化」としては「われわれ自身が教育労働者の一人として、父母、国民とともにより幸福に生きようとし、統一と団結と、連帯の中でたたかっていくときに、われわれ自身の生き方、倫理として自覚するものこそが、われわれの訓育力の源泉となるのである。」(同55頁)と自身の労働者性に辿り着くしかない。そして、「子どもに正しく生きることを求めるまえに、われわれ自身がまず正しく生きなければならない。このことを前提としないで、われわれは道徳教育にとりくむことはできない。」(同55-56頁)と結んでいる。
 〈正しく生きる〉
 基本はこの〈正しさ〉であろう。何が〈正しい〉のか。
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2016年10月10日

日教組の道徳教育観 集団主義その2

 このときの道徳教育特別分科会でも確認されたことであるが、われわれは「道徳をコトバでもって教えこむ」教授的な修身科教育をしりぞけ、「道徳的訓練をほどこし」「道徳的心情をつちかう」訓育を、学校教育の全般を通じておこなう原則にたってきた。その実情は次のように整理されている。
  A 生活指導
   a 個別指導
   b ホームルーム指導 学級づくり
   c 全校指導 生徒会児童会
  B 教科学習―社会科を中心とするが、国語、理科その他でも
  C クラブ・課外活動
  D 校外指導
 このような指導の成果として持つ義の書店が確認されている。
  ① 自主性がのびた
  ② 批判力が高まり、自己の意見をもつ
  ③ 集団内の協力の精神がめばえた
  ④ 社会的問題に対する関心が高まった

《中略》
 しかし、そうはいっても、さて自らに、それでは「道徳をどう考えるか」と問うことになると、「この部門は、本分科会の一番弱い個所であった。これは報告書において、すでにあらわれていたが、討論においてまざまざといっそうあらわにされた。」(「日本の教育」第七集 六二九頁)と白状せざるをえない状態があった。

(日本教職員組合『道徳教育シリーズNOー1 総論』48ー49頁)

 この状態で特設道徳を迎えることになったのであり、日教組の論理的脆弱さは最初からあったのである。
posted by 新谷恭明 at 23:46| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする