2017年07月20日

佐々木盛雄『天皇制打倒論と闘ふ』を読む その2

 まずはこのパンフレットの概略から。構成は以下の様になっている。
****************************************************************
はしがき
第一章 序文
第二章 天皇制打倒論
 其の一 天皇制の戦争責任を追求する論
 其の二 天皇制は悪用されるとの論
 其の三 日本歴史を虚偽なりとなす論
 其の四 法律的主権在民を主張する論
 其の五 天皇を解放すべしとなす論
第三章 天皇制擁護論
 其の一 感情的に天皇制を支持する論
 其の二 一君万民を民主々義となす論
 其の三 主権原理から切離して支持する論
 其の四 秩序維持のために天皇制を支持する論
第四章 結語
 附録  輿論調査に現れた天皇制
****************************************************************
 戦後の天皇制をめぐる国内のさまざまな動揺を整理しているように見える。ということでゆっくり見ていこう。


posted by 新谷恭明 at 15:26| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする

佐々木盛雄『天皇制打倒論と闘う 佐々木盛雄『天皇制打倒論と闘ふ』を読む その1

 教育勅語のトンデモ訳を広めた国民道徳協会そのものと思われる佐々木盛雄なる人物。この人が『天皇制打倒論と闘ふ』というパンフレットを戦後間まもない1946年6月に刊行している。発行元である文進社がどういう出版社であるかよくはわからないが、日本橋蛎殻町に住所を置き、戦前から出版活動をしていた。
 このパンフレットは、全部で41頁のコンパクトなものである。
天皇制打倒論と闘ふ.jpg『天皇制打倒論と闘ふ』
 佐々木盛雄の略歴を同書掲載のままに記すと以下のようになる。
****************************************************************
 兵庫県出身。昭和七年東京外国語学校卒、報知新聞社入社、海外特派員、政治記者として外交問題を担当。同社の讀賣新聞との合併に反対して昭和十六年退社、日本外政協会部長就任。大東亜戦争勃発後海軍省、情報局嘱託依嘱、昭和二十年十二月自由新聞編輯局長就任、翌三月退社。政治、外交評論家。
****************************************************************

posted by 新谷恭明 at 12:52| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする

2017年07月14日

衛生唱歌 楽譜

楽譜を忘れていた。
衛生唱歌衛生唱歌楽譜.png
posted by 新谷恭明 at 15:46| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする

衛生唱歌二段

それでは二段
****************************************************************
人万物(ひとばんぶつ)の 霊として
忠孝二道を ふまんには
幼きときより 心して
左(さ)の法則を 守るべし
よるは八時に ねまに入り
朝は七時に とこをいで
よく口すすぎ 眼を洗ひ
顔を拭ひて 髪をとけ
食は必ず よくかみて
静(しずか)に 咽(のど)に のみ下(く)だせ
湯漬茶漬を 食すれば
消化を損ふ ものと知れ
余りに熱き 湯茶のむな
氷の如きも 亦わろし
熱したる身に 水飲めば
風ひくことの あるぞかし
****************************************************************
歌なのに「左の法則」と来た。やはり三島は音楽の専門ではないと見える。しかし、健康的な生活習慣も「忠孝二道」を踏むためのこと。教育勅語はそうでなくてはならないのだ。まあ、生活習慣だけに関しては「いいことが書いてある」のだ。子どもたち、早く寝なさい。
posted by 新谷恭明 at 15:36| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする

衛生唱歌

 国立国会図書館のデジタルアーカイブというのは便利だ。地方にいて古い文献を楽しめる。
 今、養護教諭について調べているのだが、学校衛生の魁である三島通良が作った『衛生唱歌』なる小品を見つけた。形は明治33年に出版されたパンフレットである。その「緒言」によれば「近年各種優美の唱歌流行し、ために児童等が卑猥の俗謡を歌ふこと、其跡を絶つに至りしは、悦ぶべき現象なりと信ず」ということで、鉄道唱歌に始まる唱歌ブームが子どもたちを「卑猥な俗謡」から護ったことに於いて意味があったという。「ならば・・・」というので三島は「衛生唱歌」を作ったということになる。
 そして三島は「衛生歌は、固より一時の愉快を感ずるを以て、目的とするものにあらず、毎日怠らず之を歌ふときは、児童をして、自然衛生の道を実行するに到らしめ、併せて其徳性を涵養するに足らん」と「衛生歌なんてものが面白いはずはないが、毎日歌っていれば衛生の道を実行し、ついでに徳性も高まるというものだ」と自負している。
 歌は全部で五段。つまり、5番まであるということだ。そうそう作曲は鈴木米次郎(東洋音楽学校、現在の東京音楽大学の創設者)という大物である。
 まずは一段から
****************************************************************
あやにかしこき 天皇(すめらぎ)は
教育勅語を 臣民に
くだし給ひて のたまはく
皆克く忠に 克く孝に
ああこの忠義 孝行は
わが日本(ひのもと)の 精華なり
身体髪膚を 父母にうけ
毀傷せざるを 孝と云ひ
心身みながら 天皇(すめらぎ)に
捧げまつるを 忠と云ふ
その身体も 精神も
健康ならずば 強からじ
忠忠孝孝 忠孝と
のきにさへづる 小雀(こすずめ)も
森になきたつ 小烏(こがらす)も
羽ぶし強きは 声高し
****************************************************************
 なんということだ。まずは健康・衛生は教育勅語の通りとうたいあげている。そして心身すべてを天皇に捧げるのが忠孝であり、教育勅語の精神なのだと言うのだ。
 教育勅語は当時はそのように読まれていた。どこぞのアホ大臣が道義国家などと怪しげな訳にたよって誤読しているのとは異なる。
posted by 新谷恭明 at 14:57| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする

2017年06月21日

梅根悟と及川平治と唾壺

 梅根と痰壺、どこかで見た気がしていた。書斎を探し回って、発掘したのが、梅根悟『改訂増補 新教育への道』(誠文堂新光社 1951年)だ。その406~411頁に及川平治の動的教育の実践例を紹介している。それが唾壺の授業だった。『新教育への道』は1947年に発行されたが、当時世間に期待された新教育についてはほとんど触れることなく、西洋教育史の研究者としてもっていた知見をまとめたものであったと思う。しかし、それから4年後に増補改訂版を発行するに至った。戦前、若い頃の梅根は大正期の新教育運動についてはほとんど言及していない。新教育の全盛期の梅根はまだ少年から成人を迎える頃であり、同時代的に新教育を評する年齢にはない。30代の梅根の教育学者としての活躍については検討が必要なのだろうが、日本の教育運動について顧みる立場ではなかったと思われる。西洋の新教育については研究は進めていたと思う。戦後、再び新教育という名の教育が登場したとき梅根はそれに応える準備はなかったと思われる。それゆえ1947年の『新教育への道』は西洋教育史の著作と言ってもいい作品であった。
 4年後。戦後の新教育というよりコアカリキュラム運動の中心人物となっていた梅根は『新教育への道』を書き直して増補改訂版として刊行した。前半の西洋教育史的考察はそのままにして後半を全面的に書き直し、新たな章を書き足している。
 その新たに付け加えた部分「余話 日本の新教育運動」という結びの章のさらにその後に付け加えられた「余話」にこの唾壺の授業が出てくる。この章は「おしまいに少し日本の昔話をしてお別れにしようと存じます」と書き出している。梅根の中で若き日に研究した西洋教育史の知見と現在進行している、そしてこれは日本の教育の歴史として若き梅根の横を流れていた歴史の延長上のものとして交錯した意味のある教育学の成果となったところである。ここでは前半で語ったペスタロッチの話と高嶺の開発主義の関係の説明から入り、西洋の教育思想の日本での移入と展開の概略が概観されている。そして「実はその時代に少くとも一つの学校が新学校としてかがやかしい出発をしていました。それは及川平治の明石附属小学校であります。」(404頁)と日本の新教育の先駆者として及川を採りあげ、この「唾壺」の授業を紹介しているのである。
 以下、その箇所を転載する。
************************************************************************************
 私はこれ以上彼の動的教育の主張をお話しするかわりに、彼がこの本の中で描いている旧教育と新教育の比較をご紹介したいと思います。彼はそこで「唾壺」という単元(題材とよんでいます)についての在来の伝統的な指導法を描いた後で、今度は自分がかつて試みたこの単元「唾壺」の指導記録をのせているのです。大へん興味あるものですから、ほぼ全文をそのまま記してみましょう。まず最初にのべるのは旧教育のやり方であります。(これでも直観教授ですから全然の旧教育とはいえないかも知れません)

 題材 唾壺
 教法 唾壺を示し、是は何であるか。・・・・唾壺であります(唾壺と板書)
     唾壺は何で造るか。・・・・陶器又は鉄で造ります。
     どれ程の大さか。・・・・直径七、八寸、高さ一勺位です。
  形態 どんな形であるか。・・・・通常円筒形であります。
  構造 如何なる部分よりなるか。・・・・たんつばを容れておく所と蓋との二つから出来ています。
     蓋はどんな形に出来ているか。・・・・まん中に小さき孔があります。
     
  効用 唾壺は何に使うか。・・・・たんつばを入れておくに使います。
     どんな場所に見るか。・・・・停車場、学校、劇場、旅館などにあります。
 復演の後、要点を筆記せしむ。

 及川は「余はこういう教育の価値を疑うものである」と断じた後、次のような自分の指導記録をのべているのです。

    題材  唾つぼ  (尋常科五学年に授けたる余の実験)
 吾々の「たんつば」には色々の病の種子がついて居ることがある。殊に病人のたんつばにはそれが多いそうだ。眼に見えぬほど小さい病の種子がひろまって、一家族悉く死去したという悲しい話もある。汝等は「たんつば」を如何に取扱わんとするか、学校では如何に取扱い居るか。
唾壺の機能の決定
 1 たんつばを入れておくこと
   それだけなら石油罐にして足れるではないか
 2 便宜に使い得ること・・・・・・・・・・・・・ 児童に考えさせる。
 3 恰好の醜からざること・・・・・・・・・・・
    便宜に使い得るとはどんなことか
    (イ)たんつばを吐き入れるとき・・・・・・
    (ロ)持ち運びに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (ハ)掃除に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 児童は考えて上記の個条をあげた。
    (ニ)容易に仆れぬこと・・・・・・・・・・・・・・
    (ホ)見付け易いこと・・・・・・・・・・・・・・・・
 ここに甲乙二個の唾壺あり、之を研究せよと命じた。このとき一児童は質問した。「先生それは停車場で使うのですか、どこで使うのです」この児童は使い場所によって批評の異なるを考えついたからである。児童は批評の要点を記録し始めた。唾壺の大さをはかるものあり・・・・たんつばを吐く者あり・・・・仆して見るものあり・・・・重さをはかるものあり・・・・立ったり座ったりしてたんつばを吐くあり・・・・学校備付の唾壺の如く水を入れおかんことを要求するものあり・・・・蓋の孔の大さをはかるものあり・・・・黒板上に或は雑記帳に形体の図案をなすものあり・・・・中には唾壺の外部に種々の著色紙を貼りつけて四、五間のところより眺むるものあり・・・・蓋をのせたり外したりして「つば」を吐くものあり・・・・(此間約二十五分)
  教師は研究を中止せしめ其の結果を報告させた。
  小川なる生徒は甲の唾壺について報告した。
  形は醜くはないがさりとて美しくもない。
  色はあまり赤きにすぎもう少し薄いがよい。
  金属より陶器でつくるがよい。
  高さはあまり高い、もう一、二寸低いがよい。
  携帯に不便である、左右に手の入るだけの孔がなければならぬ。
  下部をもっと重くせねば仆れやすい。
  僕の考案せる唾壺は次の通りであると言うて板上に図解を試みた。(乙の唾壺についても報告があった)
報告終わるや衆児は悉く起立して報告に対する批評を求めた。余(教師)一人ずつ之を許した。
今児童間の討論を紹介すれば
 討論
(甲)―色の赤きに過ぐというのは使い場所を考えぬ議論である。停車場の如く多数の集まるところではよく目につく様に赤くせねばなるまい。(乙)―あまり赤いときは夜分によく見えぬから薄いがよいという。甲論乙駁の結果
 唾壺は上方小部分だけ黄色にし、其他は赤色がよいというに決した。(赤黄の上下についても議論があった。)
次に
金属よりも陶器がよいという議論に移る・・・・金属は高価にして陶器は廉価なりというものあり、陶器は破れ易いというものあり、甲論乙駁の結果
  多人数集まるところでは金属を用い、家庭用には陶器がよいというに決した。
次に高さの議論に入る・・・・(中略)
議論は此の如くにして進行し、或は水を入れおく分量に関するあり、或は蓋の孔の大さに関する議論あり、或は停車場、旅館、病院用と家庭用とは携帯色彩を異にすべしと論ずるあり、議論盛なりしも余は一先ず討論の終決を告げた。衆童は嬉々たり怡々たり、毫も疲労の色なし。
依りて余は
「この学校用理想的唾壺」を考案すべきを命じた
(早坂)は宿題にされたしと要求した。多くの女児は之に賛成した。
(大森)は次の時間に図画手工科をおき粘土細工を要求した。
之にも多数の賛成者があつた。
余は早坂の要求を容れて宿題となし、図案と実物とを併せ提出すべきを命じた。衆童拍手、一人の不平者なし。・・・・・・・

 このようにして生活的な題材(即ち単元)をとりあげ、観察(研究)、発表(報告)、討論、そして構成的プロゼクトというような順序で発展してゆく学習の流れ、その間常に機能的な知識を自ら探求し、行動によって学び、生活の改善にまで及ばせようとしたこの教育法は、なかなか立派なものであったと申すべきであります。
************************************************************************************

posted by 新谷恭明 at 23:37| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする