2017年03月18日

教育勅語をきちんと読もう

 教育二関スル勅語、通称教育勅語を無教養な大臣が誤訳ものを読んで語ったという。誤訳と言っては失礼かもしれない。国民道徳協会というそれなりの組織が責任を持って訳されたものだろうからだ。しかし、この国民道徳協会の訳であるが、例えば、冒頭の「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」のところを「私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます」と訳している。そこからどうにもしっくりこない。なぜしっくりこないかというと「朕」と「我カ」との間の関係性が示されておらず、天皇と国民があたかも対等であるかのような表現になっている。
 また「道義国家の実現をめざして」というのは原文のどこからも読み取ることはできない。あたかも天皇制国家を否定しているかの如き感がある。そのようなものをテキストとして此の国を護る任にある防衛大臣が教育勅語を理解しているとしたならば、それは由々しき事態であるし、この訳で教育勅語を理解したものが「教育勅語にはいいことが書いてある」などと言って世間に喧伝しているのは此の国を枉げるものでしかない。
 重要なのは教育勅語を正しく読み、その上で教育勅語に対する考えを申し述べるべきではないのか。殊に国粋派と思われる人たちが、安易な口語訳に依存したり、本来教育勅語が言われんとしていることを曲解して語っていることはそもそも此の国を貶めるものであるし、教育勅語を否定している人たちも単に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」だけに過敏に反応するようなことでは水掛け論の域を出ないのである。
 ついては手元にある杉浦重剛著『倫理御進講草案』から本来の趣意を学んでいきたいと思う。これは杉浦重剛(いまさら説明はいるまい)が「東宮殿下に奉侍して倫理を進講すべきの命を拝したる」(同著一頁「倫理御進講の趣旨」)という事情から、皇太子のために作成したテキストである。皇太子とは後の昭和天皇のことである。最初世に出たのは御進講を拝命した大正三年であり、今回参照しようとしているのは昭和13年刊行の戦時体制版である。

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2017年02月22日

部落史学習の教材とその使い方

 西南女学院大学で「人権と社会」という講義を担当していて、その前半は部落史に割いている。もうだいぶ前のことになるが、栗山煕学長(当時、故人)から電話がかかってきてこの講義の非常勤講師を委嘱された際に、栗山学長から
「人権問題の基本は部落差別の問題なので、重点的にやっていただきたい」
という言葉を添えられたおかげでもある。
 それはさておき、講義では前近代の差別について説明した後に解放令、新政反対一揆、近代的差別の発生、部落改善運動、水平社の盛衰というような流れで組み立てている。重要なのは差別というものが何であるか、という問題だ。言葉としての差別は前近代について講ずるときも便宜上使うことになるが、近代的意味で使う「差別」と前近代で使う「差別」では意味がちがう。近代的用法で「差別」と言うとき、それは市民としての平等、人権の保障という前提の上で、それが実施されていないときに使われる。前近代社会では人権という概念がないし、身分社会なので、人間がみな平等であるという考え方はしないからだ。
 その意味では近代国家たろうとした明治政府が始めた施策に於いてはじめて差別の有無が問われることになったのである。こうした時代の転換、近代国家の形成、近代的差別の発生と克服といったテーマは中学校における教科学習でも同じ問題意識で考えることができよう。但し、中学校では教科教授が基本であり、部落史学習に何時間も費やすことはできない。あくまで教科教育の中に位置づけていかなくてはならないという制限が存在するし、それは教科の性格上、というより日本史通史の性格上当然のことである。
 本稿ではまず、解放令、新政反対一揆の扱い方について検討し、それから水平社に至る五十年ばかりが教育現場ではブランクになるという現状と展望について検討してみたい。

Ⅰ 「解放令」の扱いについて
 ここでは中学校の教科書として『新編 新しい社会 歴史』(東京書籍)を使う。ということで、190頁「「解放令」から水平社へ」を開く。ここではまず「解放令」を読み下したものが資料として紹介されている。
┌──────────────────────┐ 
│ 「解放令」 (1871年8月28日太政官布告) │
│えたひんの称を廃し身分職業共平民同様とす。 │
└──────────────────────┘ 
 実際の「解放令」の文言も挙げておこう。
┌────────────────────────────┐ 
│  太政官布告第四八八号 │
│穢多非人等の称被廃候条自今身分職業とも平民同様たるべき事│
│辛未 八月           太政官 │
└────────────────────────────┘ 
 驚いたのが、検定済教科書であるにもかかわらず、誤解を招く表記がされていることだ。まずは日付である。「1871年8月28日」となっているが、これは布告に「辛未 八月」と記されているものを辛未→明治4年→1871年と換算していったものであろう。しかし、まだ旧暦の時代であって、辛未8月は明治4年10月12日に相当する。もし、西暦で書くのならば1871年10月12日とすべきところであろう。歴史の教科書にこういうまちがいを書かれると非常に困る。明治5年12月2日から3日に歴史のモノサシ自体が変わったということはとても大事なことだし、解放令がエアコンのない時代に残暑きびしい季節ではなく、秋風が吹き始めた頃であった、という歴史の実感を子どもたちに感じてもらうことも大切なことであるからだ。
 次に「穢多非人等」となっていたものが「えたひにん」と読み替えられ、「等」が落ちてしまっているのである。この「等」の中に前近代における更に多くの賤民と位置づけられる人たち(以下「賤民」とする)が含まれており、その賤視の構造を解明する手がかりが含まれているのである。それは死にまつわるケガレ意識であろう。但し、歴史という教科の中ではそれはスキップしてもいいかもしれない。
 で、この「解放令」が差別はいけないとする善意の官僚によって出されたものではないということを理解せしめなければならないだろう。「解放令」は単独の思いつきや、「賤民」たちの運動によって引き出されたものでもない。この国が日本という近代国家として国際社会にデビューしようとするとき、これは必要な課題だったからである。
 近代国家として必要なことはまがりなりにも市民社会を構成していることが条件である。つまり、廃藩置県、地租改正、徴兵令、学制などと一体の改革なのである。そしてこれらに通底しているのが国民という概念である。もちろん、明治政府の施策は完璧ではなかったし、差別主義者はわんさといたわけであるから、「差別は根強く続」*1くのは当然である。学制も就学率がすぐに向上したわけではないし、徴兵を免れようとした人間も、脱税をもくろむ人間もいたのである。しかし、学校へは行くべきだし、兵役も務めなければならないし、税金も払わなければならないということは原則であり、「解放令」以降、差別もしてはならないことであった。それが近代国家なのである。だから、被差別部落の中から成功者が出ても制度上問題はなかったということになる。近世ではそうはいかない。穢多身分の人間はその身分を超えたところで成功者になるはずがなかった。身分とはそういうものである。「解放令」はそうした身分の境界を取り払い、同じ国民としたのである。
 重要なのはこれらの施策を一体として考えなければならないということである。それが近代国家への転換である。明治6年に西日本一帯で発生した新政反対一揆の要求にはこれらがすべて盛り込まれていた。それはたまたま不満が一つずつ集まってきたということではない。一揆勢は突然降ってきた「近代」に対して抵抗したということなのだ。だから、この一揆勢を「管内頑民暴挙」*2と権力は罵ったのである。近代化の意味を解さない「頑民」なのであった。
 新政反対一揆はこのような近代に抵抗する動きが権力側ではなく民衆の側にあったということをきちんと学ばせるべきであろうし、このとき「近代国家の国民となった」ということに於いて日本では初めて人権というものが発生したということ、また差別もまた同じ人権を持っているにもかかわらず扱いがちがうがゆえに差別となったのだということを学ばせるべきなのである。それが教科としての「社会科」の役割なのである。
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2017年01月20日

新学習指導要領

 答申が出た。これに基づいて学習指導要領が変わる。今年度中に小・中学校の、今年中に2017年度中に新しい学習指導要領が出て、小学校は2020年度から、中学校は2021年度、高校は2023年度から実施するそうだ。
 少しずつ読んでおこう。長いので「概要」のほうを読む。
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(『概要』本文)
第1章 これまでの学習指導要領等改訂の経緯と子供たちの現状
(前回改訂までの経緯)
・ これまで学習指導要領等は、時代の変化や子供たちの状況、社会の要請等を踏まえ、おおよそ
10年ごとに、数次にわたり改訂されてきた。
・ 平成20年に行われた前回改訂は、教育基本法の改正により明確になった教育の目的や目標を
踏まえ、知識基盤社会でますます重要になる子供たちの「生きる力」をバランス良く育んでいく
観点から見直しが行われた。
特に学力については、「ゆとり」か「詰め込み」かの二項対立を乗り越え、基礎的な知識及び
技能、思考力、判断力、表現力等及び主体的に学習に取り組む態度という学力の三要素のバラン
スのとれた育成が重視されることとなった。教育目標や内容が見直されるとともに、習得・活用・
探究という学びの過程の中で、言語活動や体験活動等を重視することとされ、そのために必要な
授業時数も確保されることとなった。

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(コメント)
いわゆる「ゆとり教育」の見直し見直し後に「言語活動」や「体験活動」を盛り込んだ経緯について説明している。まあ、言い訳ね。

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2016年12月27日

北清旅行記その1

 東亜同文書院の学生による報告書「北清旅行記」である。宮崎県所蔵の史料である。
まずは表紙
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報告書
北清旅行記
  宮崎県留学生
  東亜同文書院第三年生
永井彦吉
林田 勇
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結了 学第十三号 無期保存   官房/五月十五日/二乙第一一九三号
供覧 知本 得二■長      係  主任
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北清旅行記
 宮崎県留学生清国上海    永井彦吉
 東亜同文書院三年生     林田 勇
上海郊外桂墅里ノ我ガ校舎ヲ出発シタルハ四月九日午後三時招商局金利源嗎頭ニ繋留セル泰順号ニ一同便乗セシハ同四時半ナリシヤ船ハ荷積ノ都合ニテ明日出帆ト定マリタルモ蒲蓋皮鞄等一切ノ行李ハ已ニ積込リシコトナレハ本夜ハ船内ニ宿泊スルコトトナリヌ 泰順号ハ一千二百余噸荷物運送ヲ主トシ旅客ハ第二ノ目的ナレバ船室長江通ノ汽船ノ如ク清潔ナラズ待遇粗畧ナリ十日朝九時解纜シ黃浦江ノ濁流大船小艀ヲ縫フテ下ル江岸通ニ聳ユル江海北関宏壮ナル郵便会社果テハ日章旗ノ飜ヘレル奔放領事館、平素見慣レタル眼ニモ一ヶ月ほど帰来セサルコトト想ヘバ又目新ラシク最ト名残惜シキ心地ス 本船ト同時ニ各会社ノ碼頭ヲ離ルゝ汽船数多ク郵船会社ノ伏木丸ハ我泰順号ト競フテ下リ入港スル船モ又夥シキ中ニ郵船ノ春日丸アリ蓋シ長崎ヨリ来レルモノ実ニ送迎ニ遑アラズ カク此時出入多キハ潮時ノ都合ニヨルガ故ナリ右舷ニ当リテ田野雑林ノ間二三ノ洋館及民屋ヲ望ムハ即チ呉淞ナリ
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2016年12月01日

問題意識がなければ、目は節穴だということだ。

 今日の朝日新聞の「折々の言葉」に載っていた。川田順造の言葉(『〈運ぶヒト〉の人類学』)。もちろん鷲田清一選。
 いつも言ってきたことだし、いつも胸に刻んできた言葉だ。決して川田氏のオリジナルな言葉だとは思わないが、研究者ならば誰でも心がけていることであろう。とりとめもない歴史叙述を書いた後なので、余計感じるが、われわれは日常を何も考えずに見て暮らしている。しかし、学問というものは日常に存在するあらゆるものに問題意識を持って見ることで始まるものだ。
 川田氏の専門としている人類学などはそこで暮らしている人にとってみればふつうの暮らし以外何物でもないものを対象としているからよけいにこういう言葉がたいせつなのだろう。
 最近の研究を見ていると問題意識に欠落した研究が多い気がする。こう書けば
「お前はよほど意識の高い研究をしてきたのだろうな」
などというお叱りを受けそうだ。こういうことは年齢や時代の問題でもない。昔から問題意識の欠落した研究者はいっぱいいたからだ。ただ、昨今の業績主義はそれを煽っているような気がする。むりやり何か〈それっぽいもの〉を書いてよしとしようとするのだ。例えば論文のタイトル「~についての一考察」安直に学術研究らしい香りをそこに求めているのだろうが、「一考察」の意味は何だろうか。「ちょっと考えてみた」ということか、それとも「ある一面だけ見た」ということか。いずれにせよ学問的に詰めた形跡は想像できない。しかし、そのような形だけを見せかけようとする。そうして大量の雑文を論文リストに載せようというのだろう。
 問題意識というのは研究者自身が一人の人間として対象と出会うことで発生する。形だけ作ろうというのでは発生しないのだ。近頃は一人か二人のインタヴューで卒論を書こうという学生が頻繁に出てきていた。幸いにそうした環境から逃げ出したので、僕は困らないが、かつての職場は大変なことだろう。もちろんこれも昔からいた。いたけれども、それは稀にいる「劣等生」のものであった。彼ら「劣等生」は何年かに一遍発生し、大学教育を小馬鹿にして卒業していった人たちだ。しかし、昨今は毎年そういうのが出てくるようになったし、僕の退職する頃には一度に何人もそういうのがいた。というより、過半がそうなりつつあったような気がする。
「こんなものでいいだろう」
というようなやっつけ感が満載なのだ。そして「なんたらの一考察」にしても「なんたらの研究」にしても、まず週刊誌のでっち上げ記事より質的に落ちるものであり、それを臆面もなく卒論だとかいって提出してエリートづらをする。どうやら質の悪い方に合わせて論文を書くからどんどんそうなっていく。最近は大学院生もそのようだから、学会でもそのような研究発表が増えてきている。
 要は研究者としての問題意識の欠落がそこにはある。目的が何かの発見ではなく、紙に文字を印刷して提出すると学士号がもらえる、業績リストが埋まる、という類いのもののようだ。
posted by 新谷恭明 at 17:56| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする

2016年10月24日

平和教育について

 県教研の「保護者・地域と連携した教育活動」分科会の一日目は2本のレポートがあったが、1本は空襲の記録を地元の体験者の話などを元にして独自の冊子をつくった平和教育の実践であり、もう1本も占領期に起きた米軍の火薬貯蔵庫爆発事件(佐々木盛弘『三発目の原爆』福岡県人権研究所発行)を教材とした実践であった。県教研では別に「平和教育分科会」が存在するので、妙なことになっていたが、私たちは「地域との連携」が柱なのでこの観点から感想を述べることにした。
 今年で戦後71年となった。これは最近あちこちで繰り返し言っていることなのだが、戦争を今の子どもたちに伝える時
71年というのは仮に10歳の子どもにとっての71年前である。ならば40歳の中堅教員が10歳の時を考えれば今から101年前のことになるだろう。大正4年のことになる。ちょうど第一次世界大戦の真っ最中である。50歳の管理職が10歳の時に学んだことであるならば明治38年、日露戦争だ。ワタクシ65歳のまだまだ若いじいさん(再任用最後の年になるのかな)にとっては明治23年、第一回帝国議会だったり、教育勅語渙発だったりという年だ。そうした年に起きたことで、つまり日露戦争や、第一次世界大戦を学んで平和学習になったか、ということである。僕もそれより近い日清戦争から平和の大切さは想像がつかなかった。
 さらに言えば10歳の子どもが40歳のばりばりの教員になった頃かれは戦後101年の子どもたちに101年前の出来事を素材に平和教育を行うことになるのだ。
 思えば僕が高校生の時「明治100年」の祝賀行事があったことを覚えている。で、1986年に戊辰戦争120年を機に山口県萩市から福島県萩市に和解と友好都市提携の申し入れをしたところ会津若松市から「時期尚早である」と言って拒否されたことがある。この申し入れはその後も行われ、ざっとネットで見た限りだが1998年にも断られ、2007年には当時の安倍首相が「先輩がご迷惑をおかけしたことをおわびしなければいけない」という発言をしたという。
 こういう話をしたら分科会では失笑が漏れた。ちょっと離れたところでは笑えるくらい昔の話なのだ。しかし、笑って済まされないのは、戊辰戦争は内戦であり、同じ日本人同士が戦争をしたのである。ならばわれわれは大分県と戦争をしようとか考えるだろうか。「あり得ない」と思うので、前述のような失笑ともなるのである。日本人同士の殺し合いというのは国家の危機という点では「再びしてはならない」ことの第一に挙げるべきことであろう。
 長々と時間感覚について書いてきたが、われわれオトナの世代にとってはわれわれが子どもの時に感じた70年以上前のことは歴史であったのだ。そして歴史で学んだ。だからわれわれはそんなことは今とは関係ないと思ってきたし、まして、大分県と戦争するかもしれないなどという危機感などは持つわけがないのである。
 歴史となっているということはまさにその頃とは時代が違う、という認識を持っているということである。時代が違うというのは社会のしくみも異なっているから「ありえへん」と感じたわけだ。空襲にしても現代ではおそらく子どもたちには「ありえへん」事象になっているのである。
 だからわれわれは地域の歴史として、その体験をした地域の人たちの話を聞きながら郷土の歴史をまとめていく。そのことによって「ありえへん」未来をつくっていく平和教育が重要なのではないだろうか。『3発目の原爆』についてはもう一つ。
「その時は占領下だったので十分な保障もなかった」
という説明があったので、一言口を出させて貰った。占領下であったというのは過去の問題ではなく、日米法的地位協定は存続していて、その体制は今も変わらない。ただ政治的に沖縄といくつかの米軍基地に適用されているだけで、それは日本全国何処でも米軍はその当時のように振る舞うことはできるシステムはそのまま残っているのだということを説明した。ということはここでの戦後は歴史であると同時に今も続いているということだ。歴史的に過去の者として位置づけられている事象の本質的な部分は現在も続いているということ。歴史として「ありえへん」未来をつくっていくためには今何をすべきか、ここに平和教育の重要な部分がある。平和教育は昔の戦争被害を振り返ることではない。これから戦争をしないことを学ぶことだ。ならば、安保法制なり、日米法的地位協定なり、現在の国土をめぐる問題。イスラム国なるものを敵として位置づけている日本国家の国際的な位置、そうしたことについてしっかり学ぶことこそが平和学習なのではないか。そしてかつての戦争は歴史として「なぜ愚かな戦争をしてしまったのか」「なぜ被害の少ないうちに戦争をやめられなかったのか」「なぜ残虐な殺し合いとなってしまったのか」ということについて学ぶことが必要なのだ。それを贖罪に留めたり、「やった、やってない」という罪のなすりあいをしたり、という次元で議論するのではなく、歴史としてその経緯を叙述していくことが重要なのだ。しかし、多くの人々が持論の正当化、自己の正当化のために歴史を利用しようとしている。自己正当化したがっている連中のことは放っておいて、平和教育を必要としている側の問題としていえば、現状認識のない過去の反省として戦争経験を語り継いできた。だからベトナム戦争の時も、イラク戦争の時も、安保法制の時も、沖縄の数え切れない諸事件の時も、平和教育の効能は発揮されなかったのだと言ってもいい。平和教育をさせられている、もしくはしなければならないと信じている人たちによって、同じ話の繰り返しを子どもたちにむかってしつづけてきたのではないだろうか。
 私の子どもが小さい頃だから30年くらい前になるだろうか。子ども向けのコンサートかなんかを見に行ったときに私よりも10歳は若いミュージシャンが反戦のメッセージを歌い、「おうちにかえったら、おとうさん、おかあさんにせんそうのことをきいてごらん」と叫んでいたときに感じた違和感を思い出す。私はその時密かに叫んでいた。
「聞くとすればお前の親の世代のことだろう。この子たちの親は戦争を知らないぞ!」
 その頃から始まっていたのだ。戦争を知らない世代が親になり、祖父母になり、中には曾祖父母になろうとしているときであっても、戦争を知っている人たちがつくった教材をそのまま使って、そのまま同じ話を受け売りでしつづけてきたのではないか。ある時期まではそれも通用したが、もう賞味期限は切れている。戦争も戦後も歴史なのである。歴史として研究し、歴史として学び、歴史として教える時代となったのである。そのことによって、いまやそんなことは「ありえへん」というものにしていかなければならないし、今直面している問題にどのように対応するのかを子どもたちとともに考えることが喫緊の平和教育の課題なのである。その時、歴史学習は重要な意味を持つのである。
 過去のことは歴史として学び、ある史実はもう起きるはずのないまさに歴史であって、「ありえへん」世界に置いていくこと。また、ある歴史は未だに解決されない現代の問題でもあり、その解決が迫られていること。そして、これから平和のためにしてはならないことについて考えるという方向に進めていくべきではないのだろうか。
 繰り返す。われわれはあまりに過去の学習のみにこだわり続けてきたのではないか。こだわることでそれらを歴史として考えず寓話にしてしまった。歴史には未来を変える力があるが、寓話は「ありえへん」話として黙殺されてもおかしくないのである。
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