2018年05月28日

全国地方教育史学会

今日(7月27日)全国地方教育史学会が名古屋大学で開催された。で、午後はシンポジウム。「教育史における個別史と全体史」というテーマだった。シンポジストとして指名されたのでなんとか役目を果たした。

発表資料はこれ シンポジウムレジュメ20180527(新谷)

河西さんにはちょいと使わせてもらいました。有馬さんにもお世話になりました。宮澤先生にも刺激を受けました。
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2018年02月09日

君が代はいつから君が代か

 君が代には3種類のものがあったことはよく知られているし、僕も書いたことがある(『学校は軍隊に似ている』海鳥社2006)。海軍省にかかわるフェントン作のもの、『小学唱歌集 初編』に載っているウェッブ作曲のもの、そして宮内省による林廣守作のものだ。フェントンの作品は国歌のない日本軍に対してフェントンが同情的に作ってくれたものだが、これは国内的には天皇賛歌という位置づけであったらしい。
 『小学唱歌集 初編』に載っているものは文部省が国歌を意識して作ったものと思われる。

   ⇒『小学唱歌 初編』の君が代

 宮内省では林廣守、実際には彼の息子の林廣季と伶人奥好義が原曲を作り、林廣守が仕上げたという(歴史教育者協議会編『三訂 日の丸・君が代・紀元節・教育勅語』地歴社1985)。その経緯は斎藤基彦のHPに詳しい。
 ところで、学校での儀式に関してざっと見た新聞資料では明治22年7月に行われた第二瀬高高等小学校の開校式のものが古い(『毎日ニュース事典』)。ちょっと紹介しておこう。

  瀬高高等小学校の開校式(明冶二十二年七月二十三日 福岡日日)
瀬高高等小学校開校式 山門郡第二瀬高高等小学校は校舎の狭隘なるより、去る五月中旬より増築の工事に取り掛り、本月初旬工事竣功せしを以て、去る十九日上棟式並びに本年学期試験免状授与式を挙行す。当日は折悪しく大雨にて来賓多かず。第一鐘の点呼にて生徒式場に入る。次に郡長、町村長、校長等それぞれ着席ありて、一同立礼終わりて唱歌(君が代)、次に学期試験成績の報告あり。これより第一生より順次修業証及び卒業証の授与ありて、卒業生唱歌(仰げば尊し)、郡長十時一郎氏の祝詞朗読終わりて、本校首坐訓導中村九郎氏の答辞朗読あり。次に柳河高等小学校長、上庄尋常小学校首坐訓導、村長鬼又彦氏及び同校訓導宮本伯次郎氏の詞朗読あり。唱歌(螢の光)、第二鐘の点呼にて、来賓及び生徒は扣所に入る。この時村氏は学芸品陳列場へ来賓を誘導す。午後一時来賓悉皆宴席に着く。宴会の間同校女生徒をして酒間の周旋をなさしめしは、かの普通酌女のごとき野鄙の観なく、終始席慇懃なりしは、来賓もいっそうの愉快を感じて、午後第四時退散されたり。続きて日廿一日の両日は、学芸品の縦覧を許せし由。

 この新校舎落成に伴う開校式は試験免状授与式と卒業式を兼ねていた。そして唱歌として「君が代」「仰げば尊し」「蛍の光」が歌われている。これより先にもこのような儀式は行われていたのかもしれないが、そこはまだ調べがついていない。
 一方、学校での儀式は明治24年に「小学校祝日大祭日儀式規程」が定められて以降、法的に位置づけられた。そして明治26年の「小学校儀式唱歌用歌詞並楽譜」で儀式で歌われる唱歌が決定したというのが今のところ教育史で学ぶ史実である。
 ここで想定された君が代はいったいどの曲であろうか。おそらく伊沢修二編『小学唱歌 壱』(大日本図書 明治25年)が出ているから、これに掲載されている「君が代」であろう。

  ⇒伊沢修二小学唱歌壱

このテキストには「此曲ハ、今日、殆ド我国歌トシテ、祝日祭日ナドニ、一般ニ用ヒラルヽコトヽナレリ。故ニ何レノ学校ニ於テモ、能ク習熟セシメンコトヲ要ス」と説明があることから、すでに「国歌トシテ」歌われていたとある。
 学校では前述の『小学唱歌 初編』掲載のウェッブ作曲のものしかなかったわけであるから、儀式の際に歌われる君が代はいつから『小学唱歌 初編』の曲から『小学唱歌 壱』の曲に代わったのであろうかという疑問が出てくる。要は先述の第二瀬高高等小学校の開校式兼卒業式ではどちらが歌われたのかという疑問である。
 儀式に関して言えば明治24年12月の「小学校ニ於テ祝日大祭日儀式ニ用フル歌詞及楽譜ノ件」に「従来祝日大祭日ノ儀式ニ用フル目的ヲ以テ著作シタル歌詞及楽譜ニ乏シク儀式施行ノ際不便尠ナカラサルヘクト存候先ツ文部省及東京音楽学校ノ編纂ニ係ル唱歌中ノ歌詞及楽譜ニシテ右儀式ヲ行ウノ際唱歌用ニ供シ差支ナキモノヲ挙ケ」云々と記されている。儀式の際に使う曲が少ないので、文部省と東京音楽学校が編纂した曲の中からよさげなものを挙げる、というのだ。そして(別紙)には文部省音楽取調掛編纂『小学唱歌集 初編』掲載の「君が代」と東京音楽学校編纂の『中等唱歌集』所載の「君が代」の二曲が挙げられているのである。
 それを見てみよう。
    ⇒中等唱歌君が代
 なんと、こちらは作曲者名は書いてないが、林廣守のものである。つまり、この『中等唱歌集』が発行されてから、伊沢修二が『小学唱歌 壱』を編纂するまでの間、二種類の君が代が文部省筋(文部省と東京音楽学校)では並立していたということ。そして第二瀬高高等小学校の開校式兼卒業式は明治22年7月であるから、ウェッブ作曲の『小学唱歌集 初編』の君が代が歌われていたことになる。
 整理すると、明治15年から明治22年7月まではウェッブ作曲の君が代が歌われ、明治22年12月からは尋常中学では林廣守の曲が歌われるようになり、明治24年12月には双方が国の推薦曲となり、明治25年あたりには小学校も林廣守のものに落ち着いてきていたと考えられる。

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2017年12月31日

梅根悟を批判した人物

 「朝日新聞」1955年1月10日付の「論壇」に梅根悟が「「道徳教育」の疑問  後退する“民主主義の徹底”」という文章を書いている。近ごろ自由党も民主党も(この年合体して自由民主党になる)その政府もここ数年、道議の高揚、道徳教育の振興を叫び続けているとし、その理由を問い、批判している文章だ。梅根の論は日本の二大保守政党とその政府は道徳の信仰に熱心だが、中身にはほとんど触れていない。あたかも道徳といえば一つしかないとでもいうようだが、実はそうではない。道徳的価値観は対立している、と指摘し、先年の教育二法も教育の中立性を言うが、じつは対立する道徳の教育の一方を排除するものでしかないという。そして道徳教育を言うことで言わなくなったのは「民主主義」だと言う。保守政党・文部省は民主主義、基本的人権、平等、平和という言葉を避けているとみるのだ。
 そして民主主義は一つの道徳原理であり、教育は民主主義の道徳教育を中核とし、それを担当するのが社会科だと言い、それをよりよくすることが大事だ、とする。しかし、政府は社会科を改訂することで民主主義の道徳教育をやめようとしていると批判するのだ。ここで「道徳教育」は「民主主義」の反対概念である、とまで言い、民主主義をやめるかどうかが新年にあたっての国民の決断すべきことだと締めくくっている。まさに今も問われている問題でもある。
 これに対して1月18日付に太田和彦なる人物が「「道徳教育の疑問」の疑問 新教育の仲介業者こそ反省せよ」という文章を論壇に載せている。肩書きは群馬大学教授兼付属小学校長で、「投稿」とある。おそらく梅根の記事を読んで反論を綴ったものだろう。
 太田は梅根の文章を現場教師の憤りを代弁するものとして評価しはする。戦後から今まで戦前とは180度ちがったしつけをするのに苦労してきた。しかし、ここに来てまた逆方向へ転換されるのでは溜まったものではないというのだが、ここまで民主主義的な新教育を勧めてきたのは文部省の役人と教育学者であり、彼等は新教育ブローカーのようなものだと決めつける。そして政府が右展開してきたが、まずは民主主義は国民にも教師にも定着したとみなしている。ただ、太田は、自分は新教育のすべてを肯定するわけではないと立場を示す。そして、戦後、米国西部山間地に流行した進歩派の教育思想だけを国内に流布させたと見る。そしてその思想が「いとも安易に、ほとんど自明的であるかのように、教育勅語の位置を占めてしまった」と批判するのである。
 「道徳教育を要望する理由、というよりスキが、新教育輸入の仕方そのもののなかに、実はひそんでいたのではないか」とたたみかける。当初の仲介業者である教育学者にはそこを反省してほしい。今の政府の悪口を言うのは「かえりみて、他を言う」ように思えると締めくくっている。
 太田は何を言いたかったのか。梅根たちの新教育理論(プラグマチズム)が「教育勅語の位置」についてしまったことへの批判なのだろう。梅根と太田は共に旧徳目主義に反対していることはそれぞれの文面で明らかである。太田が新教育仲介業者と決めつけている人たちの思想的行動は果たして民主主義であったのか。無批判に米国西部山間地の特定の教育思想の引き写しだったのか。
 梅根はその後太田に反論したのだろうか。その後の「論壇」にはまだ見つけていない。梅根に比して太田は(今では)無名である。ちと、太田について知りたくなった。

19550110.jpg梅根の意見
太田の批判19550118.jpg
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2017年09月14日

佐々木盛雄『天皇制打倒論と闘ふ』第三章①

 第三章は「天皇制護持論」である。ここからは佐々木は天皇制護持論とされるものについてコメントを展開していく。
 「其の一」は「感情的に天皇制を支持する論」だ。それは「素朴なる信念論」であり、「われわれは日本人である」「日本人なるが故に天皇を敬ふ」というまさにシンプルなものだ。佐々木は「真の日本的民主々義は、この国民的信念を前提とする天皇制を認めてこそ、その実現が速やかに出来ると云ふにある」し、「天皇制と、民主主義とは何等矛盾しない」のだそうだ。
 この護持論の根拠を佐々木は3つあげている。
①日本は一家一国家であり、その家長が天皇である。
②歴代天皇は民主的であった。
③天皇は平和主義者である。
 これについての佐々木の見解は、この素朴な信念は認めつつも、「近代人は
合理性を飽くまで要求するのであつて
」「たゞ感情的、信念的に天皇制護持を叫ぶのは、正に歴史に逆行するものである」と批判し、こうした「神秘的信念論の横行こそは、軍閥に悪用される結果となり、つひに太平洋戦争の如き所謂犯罪的戦争を誘発せしめるに至つたのである」と言い切るのである。この発言からわかるのは佐々木が民主主義と近代的歴史学を重視する立場にあることである。但し、こうした知見の上に佐々木は「この国民的信念を裏づける合理的理論が用意されなければならぬ」と締めくくる。感情論にも合理的な裏づけが必要だということだ。
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佐々木盛雄『天皇制打倒論と闘ふ』第二章⑤

 其の五は「天皇を人間的に解放すべし」だ。この論は「既述の天皇制廃止論とは、全く異つた趣を有する廃止論」なのだそうだ。この論は「天皇を国民尊崇の的たらしめた天皇の神秘性は近代的理性によつて既に取り除かれたのであつて、天皇は人間であつて決して神ではない」という人間天皇観に基づく考え方である。だから天皇は政治的責任を負う立場に置くのは残酷なので、解放してあげたい、という意見となる。
 これに対して佐々木は、「天皇は国政担当の無能力者であると断定するところに、その前提の行き過ぎのある」と反駁する。佐々木は、天皇は政治的に無能なのではなく、有能であったがゆゑに終戦の判断も的確に行われたではないか、と言うのだ。
 これで、天皇制打倒論への批判は終わる。
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2017年07月22日

佐々木盛雄『天皇制打倒論と闘ふ』第二章④

 今度は「法律的主権在民を主張する論」だ。「民主々義を観念的に定義し、天皇制は民主々義と絶対に相矛盾するが故に、これを廃止せよと云ふ論がある。そしてこの天皇制廃止論の基礎となす民主々義の定義は、リンカーンの『人民の、人民による、人民のための政治』といふ概念である」とこの説の概略を紹介している。それは「政治の主体が人民であるといふ意味」であり、「人民の福利安寧を目的とする政治、従つて一特定人の利益や、一階級の利益を目的とする政治ではない」とまとめる。だから「主権在民」と「天皇制の観念の中にある『主権在君』とは、根本的に調和しない」とするのが、この論の論旨だとする。
 としたところで、佐々木は「然しながらわれわれは、斯くのごとき幼稚なる処世論に賛成するわけには行かぬ」と反論を始める。その基本的思考の柱は「主権在民は民主々義の要素であることに異論はないが、然し、われわれの云ふところの主権在民とは『実際的政治的意味』に於ての主権在民であり、『形式的法律的意味』にをいての主権在民ではない」というところにおく。佐々木が基本的に民主主義を主軸とし、主権在民を是とするスタンスを保って議論するつもりなのである。
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 かくの如く民主々義は、その共通の観念においては、人権の尊重、自由、平等の欲求であり、この欲求を達成するために、実際政治の上において人民が最後の決定権を持つことであり、換言すれば『実際的政治的意味においての』主権在民なのである。従つて「形式的法律的」な主権在民は決して民主々義の基本条件ではないのである。そして。形式的、法律的な主権在民が、民主々義の基本条件でないとすれば、何故に彼等は形式的主権在民を金看板として、天皇制廃止を唱へなければならぬのであるか。
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 少なくとも佐々木は民主主義が前提であり、天皇制は民主主義と矛盾することはないと言っている。このことは重要である。たとえ占領下という時代状況下であったにしても、佐々木は民主主義者であったのである。
 そして佐々木は以下の様に結論づける。
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…凡そ民主々義を確立するにあたり、『法律的形式論』のみを振りかざして是非を判断することではなく、『実際政治的』にものごとを判断し、実行せねばならぬことである。だから形式的な主権在民の看板を押立ずとも、実質的に主権在民を達成すればそれで充分であり、何を好んで形式的法律論に拘泥して、二千年来の安定勢力たる天皇制を廃止する必要があらうか。
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 やや苦しいが、実質的に民主主義を確立すれば天皇制をなくす必要はないという言い分となる。
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