2014年03月09日

懐かしい記事だ

懐かしいものが出てきた。10年ほど前の週刊朝日の記事だ。九州大学の志20140309211017.pdf
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2014年01月06日

GPA

 GPAという厄介なものを今大学は使わなくてはならない。何かっていうと要は成績評価なんだけど、いろいろ計算の仕方があって、結果的にはA、B、C、D、Fに区分する。Aはめっちゃできる、Bはようできる。、Cはまずまず。で、だ。Dはまだまだ。だけどとりあえず単位は出すけど、このままだと卒業は無理。で、Fはfailure、つまり不合格ということだ。これが優、良、可、不可とちがうのはDが可ではないということだ。A、B、C、Dを4、3、2、1に換算して平均が2点に達しないと卒業できない、というのが重要なところなのらしい。
 ところが、今までの日本の大学の慣行ではA、B、C、D、Fは秀、優、良、可、不可に置き換えられ、全部可でも卒業できることになる。ましてAは90点以上、Bは80点以上、Cは70点以上、Dは60点以上という100点法との換算をしたりするから余程ややこしくなる。何しろ70点以上なんて取ったことのない人間には在籍は不可能ということになるからだ。
 しかし、現在の大学は古い慣行と新しいシステムが混在しているので厄介なことになり、不利益は学生に廻っていると思われる。Dが卒業要件に拘わる評価だとは考えずに可の英語読みだと理解して評価する教員が大半であり、その結果、日本の大学生のGPAはおおむね低いという外国からの評価となって留学などの際に不利益になりかねないということが言われている。
 さらに100点法との無理な換算があるし、100点法でなければ納得できない教員が多いので、これもGPAを下げる結果になる。
 以上は点をつける側の問題であったが、学生からすれば、少しでも高いポイントがもらえる科目に集まるといったいわゆる小賢しい点取り競争に拍車をかけることになる。その結果、学生は学びたい科目を学ぶということよりもより高いGPAの得られる科目を取る(学ぶではない)という行動に出るようになる。
 これを是正するためには厳格な評価基準が必要となってくる。つまり、何がどれだけできればBだとかいう基準だ。これをルーブリックと言うらしい。それなりにもっともな話なのだが、これが厳密になればなるほど講義の、いや大学教育の中身が計測できるものになってしまうことになる。どういうことかというと、科目ではなく教科になってしまうと言うのが妥当かもしれない。従来の、というより僕の信じてきた大学教育は無形の資質を学生に与えるものであった。ところがこれが有形の知識や能力を与えるということになる。つまり運転ができるとか、二次方程式が解けるとかいうことだ。それは初等中等教育のある部分までには必要かも知れない。高等教育でも或る部分では必要かも知れない(理系の数学や物理の基礎知識みたいなもの)。しかし、大学で学んだから向き合える答えのない問いに対する応えを育てられなくなってしまう恐れがある。それは現在タテマエで標榜しているアクティブラーナー云々の存否にかかわる問題なのだ。
 ということで「ああ、やだやだ」という難問を抱えて年を越した次第だ。
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2013年06月12日

基幹教育カリキュラム

ここだここ
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2013年03月06日

5 基幹教育科目はこうなっている(モジュールⅡ)

【モジュールⅡ】
 基幹教育モジュールⅠは専門の学部で学ぶ前にこれまでの学び方から学びのカタチを切り換え、九州大学での学びの足腰を鍛える課程ということができるだろう。
 1年次の基幹教育モジュールⅠを修了したら、伊都、箱崎、馬出、大橋の各キャンパスでそれぞれの専攻分野の学びに入る。同時に〈基幹教育モジュールⅡ〉を受講することになる。〈基幹教育モジュールⅡ〉はそれぞれのキャンバスで開講される基幹教育科目群のことだ。理系は積み上げ式なので各キャンパスで次の段階のディシプリン科目を開講している。外国語もここでさらに磨きがかけられるだろう。とくにモジュールⅡで重要視しているのは「高年次基幹教育科目」だ。専門的な学修・研究をすすめていくに従ってそれらの学問をちがった角度から見つめなおすことも必要になってくる。
 「高年次基幹教育科目」はそのタイプにより、A群とB群にわけられる。
 A群は高年次になって、自分の専攻する学問の意味や役割を問い直すための〈知〉が詰まった科目だ。例えば科学史、科学哲学、脳科学、認知科学、現代社会、現代史、芸術などといった科目を高年次になって学ぶことで学問の本質を問い直すことができる。ことに理系の人間にとって科学史、や科学哲学はその存立の理念そのものを問い直すことになるのでぜひともお勧めだし、現代史や現代社会は学問の社会的な役割を点検するのに絶対に必要な物差しだ。また、地球温暖化、水質等に視点をおいた環境問題やエネルギー政策等の科学技術政策というような現代の科学が果たすべき社会的使命について考えることもA群科目の狙いだ。
 B群は特定の専門分野を学ぶ者にとって有用な特定の知識・スキルを獲得する科目である。例えば、医療従事者や技術者という専門家はその学問は常に倫理と向き合わなくてはならない。そうした専門家のための行動学がB群に含まれる。また、契約法、特許、知財など分野の如何にかかわらず、起業したり、経営したりする人にとってその専門的な職務を裏づける経済マネジメントにかかわる科目や、集団の合意形成をとっていくためのファシリテーション技法や、文系理系を問わずに共通に知っておきたい統計学のような方法学、国民的常識でもある日本国憲法など、学問を究めていく専門家がその〈知〉を活用するための共通の知識やスキルを身につけるのがB群の狙いになる。
 もちろん、語学はさらに磨きをかけていくことができるし、健康・スポーツ科目も学問としてブラッシュアップしていくことができる。実際にほとんどの学問領域では英語で論文を書かなくてはならないし、国際学会や国際会議で成果を発表したり、ディスカッションをしなくてはならなくなる。健康・スポーツ領域についても九州大学では大学院の課程も持っていて専門的に究めることだって可能なのだ。


  大団円 
 伊都キャンパスに春の風が吹いている。この一帯は太古の時代からアジアへと開かれていた場所だ。なにしろこのキャンパスには学術的に貴重な古墳群もある。眼前に玄界灘が開かれている。ここはアジアの玄関口、その先は世界に繋がっている。そして九州大学の未来に、九州大学で学ぶ若者の未来にひろがっているのだ。
 九州大学には無数の〈知〉の種子が埋もれている。その種子を芽吹かせ一本の木となし、林となり、森となる。そして果てしなき〈知〉の森は深く深く若者をいざなう。
 九州大学には無数の稚魚がいる。その稚魚が玄界灘から大海に出でて、七つの海を席巻する大魚となる。
 そのためには学びのカタチを変えること、新しい学びによって自分自身を変えることだ。すべては基幹教育から始まるのだ。

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5 基幹教育科目はこうなっている〈モジュールⅠ〉

  5 基幹教育科目はこうなっている
 基幹教育は、1年次に基礎的な学びの技法獲得と〈知〉の基礎的体験をする〈モジュールⅠ〉及び2年次以降に専門の研究を続けながら専門分野を補強していく〈モジュールⅡ〉からなる。九州大学に入学した学生は、全員がこの基幹教育の〈モジュールⅠ〉を学ぶことになる。
【モジュールⅠ】
 〈モジュールⅠ〉の中で、大学における学びへの移行を図るための第一歩が、「基幹教育セミナー」だ。アクティブ・ラーナーとしての学びを続けていくには、これまでに培われてきたであろう「知識を蓄えていく習慣」に加えて、「知識を活かして“問う”習慣」を身につけなければならんのだ。「なぜだろう?」「どうしてかな?」と批判的に思考したり、新たなアイディアを発見したり、創造したりする。そんな場を「基幹教育セミナー」は提供してくれる。ここでは自分とは思考の癖がたぶんちがっている仲間と学び合うことを通じて、自身が陥りがちな思考パターンに気づいたり、自らが思考している枠組みを広げることが期待される。対話が中心に置かれたセミナーという場で、“問い”の発見や気づきを重ね、『Why』を大切にすることがねらいとなっている、それが「基幹教育セミナー」なんだな。
 そして基幹教育のもう一つの個性的な科目は「課題協学科目」だ。耳になじみのないこの科目の特徴は講義と協学と言われる。まず、現代社会が抱える様々な課題や問題の中から授業テーマを設定する。そのテーマに対する文系・理系にまたがる複数の学問的なアプローチを提示するのが、講義。そして今度は提示された課題について少人数のチームで〈知〉の収集を行い、みんなでその成果をぶつけ合って議論するのが協学だ。文系・理系学部混成のグループで議論し合う協同学習(協学)により、幅広い視野と考え方を獲得し、それぞれの思考能力を高め、自主的に他者と協力しながら学習を進めることのできる姿勢を身につける。そういう科目なんだ。斬新だろう。
 基幹教育では教養というものについて大きな見直しをはかっている。大学における教養というのは実はそれなりの歴史がある。帝国大学時代には大学では専門の学問しかやらなかった。学問の基礎となる教養的〈知〉は高等学校ないしは大学予科というところで行われていた。今の高等学校とはちがう。だから旧制高等学校ということが多い。そこでは学問的な思考と方法論に裏づけられた教養的〈知〉が与えられていたのだ。それがいわゆる新制大学を作ったときに一般教育という考え方をとりいれて、大学においては広い教養を持った専門家を作ることを目標とした。その広い教養が一般教育というものだったんだが、実際には専門教育とは切り離された教育になってしまったんだな。それで、九州大学は専門の学問を学ぶ大学だ、という認識に立つことにした。そこで学ぶ教養というのは学問的教養なので、学問的なディシプリンを学ぶことに第一の意味を持たせることにしたのだ。
 ディシプリンdisciplineのdiscpleはシャレじゃないが弟子という意味なのだ。で、弟子を鍛えるというような意味合いから始まった言葉で、研究の世界では学問的な訓練のことを指す。大学で学ぶ教養というのは学問的な教養であって、大正期以降巷間言われるようになった文化的な知識をさす「教養」のことではないと定義しなおしたのだ。そして「ディシプリン科目」というのを基幹教育に位置づけた。「ディシプリン科目」には「文系ディシプリン科目」と「理系ディシプリン科目がある。」
 「文系ディシプリン科目」は文系的な〈知〉の技法をしっかりと身につけておくための科目と考えていいだろう。それぞれの専門分野の概説、研究方法論、研究対象論などをふくむ内容で、学部専攻領域で学ぶ学問の基礎力を培う専門基礎科目だ。と同時に他の学部の学生にとっては学問的教養科目となる。これからは学際的な思考も求められていくので、文系の学問のディシプリンは理系の人間にとっても、文系の学問どうしでもお互いに知っておかなくてはならないことになる。とは言え、担当の教員は自分の学部の学生に向かって講義をする。学部の専門教育科目だからだ。決して手は抜かない。他の学部だからとか、理系だからということで甘やかしてはくれない。それをしっかり学ぶことで他の学問分野の技法を身につけることができるし、ほんものの学問的教養が自分のものになるのだな。恐れることはない。その学部に入ったつもりでやれば何とかなる。みんな同じ1年生なんだから。
 「理系ディシプリン科目」もまた理系の各学部の共通の専門基礎科目になる。理系の場合は文系以上に積み上げ式の学修が要求されるので、文系ディシプリン科目とは少し様相がちがう。まず第一に、それぞれの科目が持つ学問領域の基礎的な素養を身につけ、その知見と自らの生活や取り巻く環境との関わりを考えられるような教養としての自然科学である。第二に、理系分野の専攻教育に連続的につながるものとして、着実な積み上げにより系統的に学修していく専門基礎としての自然科学だ。ただ積み上げるだけではなく、学際性を意識して自然科学の基礎を幅広く学ぶことで、専門分野をより深く考えたり高めたりしていくことができるだろう。第三にいわゆるリメディアル教育という位置づけの科目がある。物理、生物、化学といった科目の場合、高校で授業がなかったり、受験科目として選択していなかったりすることがしばしばある。そのことから生じる基礎的知識が不十分な部分や十分に整理されていない部分を補足して、専門分野へつなげられるようにするのがリメディアル教育というものだ。自然科学への興味と問題意識を持ち、自ら考えることで、知っているだけではない本当に使える知識あるいは知識を使える力を培うのが理系ディシプリン科目の役割だと言える。
 総合科目というのもある。これはぐっと学びの幅を広げる科目で、文理にまたがる幅広いテーマが対象になる。教員と学生の双方向の交流によって得られた多様な知識から自分自身の知恵をつくりあげていく楽しさと喜びを手に入れることができる。その〈知〉の幅広さが将来、おそらく幅広い視野で問題を発見していくのに役立つだろう。そのうち「フロンティア科目」と位置づけられるのは、熱心な教員による自主開講の科目を中心として、チャレンジ性の高い科目群だ。授業形態も請義型、演習型、セミナー型、集中・フィールド型と多様であり、それらの特徴を活かしてそれぞれの能力や発想をぶつけあうことができる科目だ。また「オープン科目」というのもあって、こちらは基幹教育の趣旨に応じて他機関(部局)等が提供する科目だ。つまり他人のふんどしを借りるものだ。基幹教育院は、他機関や部局と連携して運営する。今のところ、QREC科日、主幹教授提供科日、他大学連携科日、放送大学なんかが想定されているのだ。
 もちろん、国際社会で活躍する人材になるためには質の高い語学学修が必要だし、健全な心身を磨く健康・スポーツ科目などがある。

【モジュールⅡ】
 基幹教育モジュールⅠは専門の学部で学ぶ前にこれまでの学び方から学びのカタチを切り換え、九州大学での学びの足腰を鍛える課程ということができるだろう。
 1年次の基幹教育モジュールⅠを修了したら、伊都、箱崎、馬出、大橋の各キャンパスでそれぞれの専攻分野の学びに入る。同時に〈基幹教育モジュールⅡ〉を受講することになる。〈基幹教育モジュールⅡ〉はそれぞれのキャンバスで開講される基幹教育科目群のことだ。理系は積み上げ式なので各キャンパスで次の段階のディシプリン科目を開講している。外国語もここでさらに磨きがかけられるだろう。とくにモジュールⅡで重要視しているのは「高年次基幹教育科目」だ。専門的な学修・研究をすすめていくに従ってそれらの学問をちがった角度から見つめなおすことも必要になってくる。
 「高年次基幹教育科目」はそのタイプにより、A群とB群にわけられる。
 A群は高年次になって、自分の専攻する学問の意味や役割を問い直すための〈知〉が詰まった科目だ。例えば科学史、科学哲学、脳科学、認知科学、現代社会、現代史、芸術などといった科目を高年次になって学ぶことで学問の本質を問い直すことができる。ことに理系の人間にとって科学史、や科学哲学はその存立の理念そのものを問い直すことになるのでぜひともお勧めだし、現代史や現代社会は学問の社会的な役割を点検するのに絶対に必要な物差しだ。また、地球温暖化、水質等に視点をおいた環境問題やエネルギー政策等の科学技術政策というような現代の科学が果たすべき社会的使命について考えることもA群科目の狙いだ。
 B群は特定の専門分野を学ぶ者にとって有用な特定の知識・スキルを獲得する科目である。例えば、医療従事者や技術者という専門家はその学問は常に倫理と向き合わなくてはならない。そうした専門家のための行動学がB群に含まれる。また、契約法、特許、知財など分野の如何にかかわらず、起業したり、経営したりする人にとってその専門的な職務を裏づける経済マネジメントにかかわる科目や、集団の合意形成をとっていくためのファシリテーション技法や、文系理系を問わずに共通に知っておきたい統計学のような方法学、国民的常識でもある日本国憲法など、学問を究めていく専門家がその〈知〉を活用するための共通の知識やスキルを身につけるのがB群の狙いになる。
 もちろん、語学はさらに磨きをかけていくことができるし、健康・スポーツ科目も学問としてブラッシュアップしていくことができる。実際にほとんどの学問領域では英語で論文を書かなくてはならないし、国際学会や国際会議で成果を発表したり、ディスカッションをしなくてはならなくなる。健康・スポーツ領域についても九州大学では大学院の課程も持っていて専門的に究めることだって可能なのだ。

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2013年03月05日

4 基幹教育の考え方

 平成26年度から九州大学では基幹教育という教育課程が始まる。九州大学には九州大学としての歴史的伝統とこれからの世界的使命を果たすことができるような人材を送り出す責務がある。それはアクティブ・ラーナーを育てることであり、そのためのカリキュラムが基幹教育なのだ。基幹教育は大学での学びの〈基〉となり〈幹〉となる教育なのだ。
 高等学校までの教育は教師から生徒への一方的な〈知〉の伝達にならざるを得なかった。それは学問の基礎となるべき共通の知識を共有化するためには必要な学びであった。ただ、その結果として学びが受動的なものとならざるをえず、時には試験対策的な知識の詰め込みに傾斜することもあったと思う。それは運用のかんちがいにすぎず、実際に学んだ学力によってそこそこに英語の読み書きはできるし、多少の計算もできるし、世の中で起きていることも理解できるようにはなっているはずだ。ただ、知識を与えられる、もしくは誰かによって用意された知識を学び取るということがこれまでの学びであった。
 しかし、九州大学では何かを教わるのではなく、何かを見つけていくことが重要になってくる。ですから、九州大学での学びは学生一人一人が学びの主体として〈知〉を学び取るというふうに変わらなくてはならない。九州大学ではそのような学びの主体者となるために「学び方を学ぶ」「考え方を学ぶ」場として設けたのが基幹教育という課程なのだ。こうした課程は九州大学だけのものなのだということをまずは知ってほしい。
posted by 新谷恭明 at 18:43| Comment(0) | 管理・運営 | 更新情報をチェックする