2013年02月24日

定例研究会

 今日は定例研究会だった。不定期なのに誰かが「定例」と言ったので、「定例」と呼んでいるが、せいぜい「月例」ではないかと思う。毎月「次回はいつにしようか」と相談しながらやっているからだ。原則は新谷・野々村研究室の論文指導・研究指導の場なのだが、もとい専攻生の少ない教育社会史研究室なので溜まってきた院生と修了生が多くなってきた。本日は最年少がM2でした。実際の最年少は20代半ばでしたが。つまりは学部生はいなかったということ。Kさんがおやすみだったなあ。残念。
 で、だ。研究とは何か、論文とは何か、ということを忘れてはならない。業績主義が跋扈し、業績と称して何か書いたものがたくさんあればいいという風潮は決して好ましいものではない。だから書きたいモノがなければ、書くべき内容のモノがなければ、論文なんて書く必要はない。なのに卒論だ、修論だ、学会発表だ、と騒ぐのはなぜか。学生諸君はそれをクリアしないと次に進めないからだと思うかもしれないが、それはちがう。少なくとも大学の4年間、修士課程の2年間で何かを見つけるくらいの研究はしただろう。それならそれを成果として出してみろや、というのが卒論であり、修論なのだ。たとえ卒論であろうが、修論であろうが、そこには何らかの新しい発見があるはずである。そしてその発見が学界でも「おおっ!」と唸らせるモノならば博士論文と言うべきものになるのだ。
 学会発表はそうした新しいモノを見つけたときに発表するものであって、見つけられないときに発表はできない。しかし、業績主義の思想は大きな勘違いを生んだ。いや生ませた。何かを書いてどっかに載っければ論文であり、「業績」だという。それは論文ではなくて、ただの作文でしかない。何か適当に喋れば学会発表だという。それは研究発表ではなくて学習発表でしかない。そんなものを見聞きするために学会の大会に人が集まっているわけではないことを承知しておいてほしい。確かに九州教育学会は院生の登竜門であり、教育史学会は試金石であるかもしれないが、それは研究成果を見せる場であり、試金石であるとすれば、それは研究成果が本物であるかどうかを見極める試金石なのだ。
 小説家はその小説がおもしろくなくてはならないだろう。同様に論文も学会発表も読んだ人間がおもしろいものでなくてはならない。発表のために発表をするとか、そろそろ時期だから論文を書くということではない。発表したいことができたから発表するのであり、書きたいことがまとまったから論文を書くのだ。そしてだいたいその時期には発表するくらいの研究はしているだろうし、論文にまとめるくらいの研究成果はあがっているだろうというにすぎない。だからそれには運不運も含めて個人差がある。そのことを気にすることはない。気にすることはないといっても気になるわけだが、それは意味のないものをまとめてお茶を濁すというアリバイづくりをすることではなくて、その時期にはその程度のことを発見しておこうということなのだ。教育史も研究が進めばネタも尽きてくる。そうなれば研究対象は矮小化され微細な重箱の隅をつつくようなモノになりがちで、前述のようなしょうもないゴミが出されてくるのは当然と言えば当然である。しかし、いや、だからこそまっとうな研究が必要なのである。
 わが定例研究会はきびしいと言われる。わが研究室の指導は厳しいと言われる。そんなことはない。僕はきちんとやることと夢を語ること以外は言ってないつもりだ。
 「きちんと……」というのは研究の手続きのことだ。問題意識を持ち、史料を集め、その史料を吟味し、論文にまとめる。論文は課題意識を提示し、問題を解いていく段取りをつくり、それに従って議論を展開する。それだけだ。
 夢を語る、なんてキザなことを言うかと思われるかもしれないが、これは野々村先生がよく言っているように大きな物語をもつことだ。研究は夢を描くことで、それがなければ業績主義の落とし穴にはまる。矮小な作文に労力を注ぐ退屈な日々を過ごすことになる。研究は楽しいものでなくてはならない。だから夢を語ろう。
 もし、夢を語れないのなら、夢を語れる場所を見つけよう。コピペしてまでアリバイを作る必要はないのだ。駄文でその場を凌ぐ必要もないのだ。納得のしたときに納得のいくモノを書こう。納得できなくても夢があればきっと次はいい作品ができるさ。
posted by 新谷恭明 at 02:35| Comment(0) | 月例研究会 | 更新情報をチェックする

2012年04月28日

研究をするということ

 同僚の飯島氏とFacebookでちょっと話した。査読のことだ。業績主義が跋扈するようになったツケで論文の査読というのがしばしばまわってくる。飯島さんから「査読はどうしているか」と聞かれたので、こんな風に答えた。
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 (まずは)論文としての体裁、問題設定が成り立っているか。引用の適切さ、史料もしくは資料の妥当性。論証の的確さ。オリジナリティ。そんなもののチェックだな。まずいものについてはどこを直せばいいか。査読だから期待は書かない。地方学会では論文としてみっともなくないことが最低基準。全国誌ではオリジナリティ、学会への貢献度だな。
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 という感じ。それで今日は定例研究会だったのでこの話を出した。最低基準としてこういうことを満たしておくべきではないか。問題設定の大切さはいつも口を酸っぱくしていっているのだが、まったく身についていない。「○○はまだ誰もやっていない。」というような理由が出てくることが多い。言葉を返すならば「やる意味がないからやられていないのだ」ということになる。研究するにはどうしてもしなくてはならない理由があるだろう。それを立てて問題を設定しなくてはならない。
 次いで論証の段取りだ。方法論というものがあるだろうが、これがきちんと示されていないことが多い。滔々と状況的なことが述べられて、「ということで本稿ではこれとあれとそれを明らかにしたい」というふうに「はじめに」が書かれていて、状況的な説明とやろうとしているあれこれとの関連がつかめないものが多い。引用する文献も自分の結論を保証するような引用では自分の研究の意味がない。歴史研究の根幹は史料だ。今まで誰も使っていなかった史料を使うか、新たな読み方をし直すか。いわば誰でもが知っている史料を並べて説明してもそれは研究にはならない。学習に過ぎないのだ。
 最も重要なのはオリジナリティだ。地方学会であろうと全国学会であろうと、学会で研究成果を発表する限りは今まで誰も知らなかったことを発表しなくてはならない。喩え卒論であれ、修論であれ、今まで誰も書かなかったことを書かなくてはならない。それがオリジナリティと言うものだ。そのオリジナリティの質の高さが論文の出来のよさになるのだと思う。
posted by 新谷恭明 at 22:39| Comment(0) | 月例研究会 | 更新情報をチェックする

植民地下という歴史

 今日はIさんが留学中の韓国からいったん帰国しての研究会。植民地下朝鮮での感化院の研究であった。いろいろ興味深い発表であったが、「植民地下朝鮮」であったということから問題が位置づけられるならば議論はめっちゃおもしろくなると思う。それには「ちょこっと比較」のまなざしが必要だし、歴史的構造化が必要なのだろう。今日の材料で3本くらい論文書いてね。
posted by 新谷恭明 at 22:21| Comment(0) | 月例研究会 | 更新情報をチェックする

2012年04月10日

4月の研究会

4月28日(土)13時からです。
土曜日ですので、注意してください。
posted by 新谷恭明 at 08:18| Comment(0) | 月例研究会 | 更新情報をチェックする

2012年01月21日

1月の研究会

1月の研究会は1月22日(日)13時からです。
修論、卒論が終わり、次は自分だexclamation×2という人たちの意欲ある発表を期待しています。
posted by 新谷恭明 at 18:05| Comment(0) | 月例研究会 | 更新情報をチェックする

2010年08月25日

教育基礎学研究会合宿

23~25日に九重九大山の家でおこなった。
で、だ。何のために研究をしているのか。修論やら学会発表やらをそつなくこなせばいいのか。そのような意識のものは逆にそつがあって、こなせない。
一つの歴史的事象は歴史的構造の中で存在理由を持っている。その仕組みを解明するということが研究の意味となってくる。それが良かったか、悪かったか、という評価をするのは研究ではない。
良かったか、悪かったかはその事実に対する評価者の感想に過ぎないか、イデオロギー的な色づけである。戦争が正しかったかどうかは政治的な見解の問題だろう。戦争好きにその好みの醜悪さをなじってもしょうがない。しかし、何故、戦争をしたのか、戦争の中で何が起きたのか、何故負けたのかを明らかにすることは必要だ。
一つの学校があり、その学校の果たした役割は何か。
posted by 新谷恭明 at 15:37| Comment(0) | 月例研究会 | 更新情報をチェックする