2018年02月13日

紀元節

2月11日は紀元節でありました。筑豊青年部の学習会でお話をしてまいりました。
当日の史料です。歴史を知らなければ騙される。聞くところによると明治節を復活させたい連中も出てきたそうな。
同志諸君!闘おうぜ!

学校と儀式と君が代と
学校と儀式と君が代と史料
学校と儀式と君が代と
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2017年12月21日

長いものには・・・という価値観

 『朝日新聞』によると米軍普天間飛行場近くの保育園に連日、中傷メールや電話が舞い込んでくるのだそうだ(「米軍ヘリ部品発見の保育園、中傷メール・電話が相次ぐ」『朝日新聞デジタル』2017年12月16日11時55分 小山謙太郎署名)。記事からメールや電話の内容を抜き取ると、「自分たちでやったんだろう」「教育者として恥ずかしくないのか」「自作自演だ」「そんなところに保育園があるのが悪い」というようなものらしい。
 さらに翌日の記事には同じ宜野湾市の小学校にも「事故はやらせではないか」「沖縄は基地で生活している。ヘリから物が落ちて子供に何かあっても仕方ないじゃないか」「沖縄人は戦闘機とともに生きる道を選んだのだろう」という内容の中傷電話がかかってきているという(「仕方ない・やらせだ・・・中傷電話、ヘリ窓落下の小学校にも」同 2017年12月20日1時42分)。
 日本の文化の中に、というより日本人の生き方の中に「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」というようなものがあるような気がしている。それはずっとずっと前の頃から感じていたことだ。ただ、「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」と言い聞かせておとなしくしているのならば、それはそれでとかく責めようとは思わない。自分もまたそのようにして人生の過半は過ごしてきたからだ。
 しかし、理由を深く考えずにともかく権力に近い方からの空気を察して異論を攻撃する人たちが常に保守派にいる。かつて、某市で有害な化学物質について、環境保護派の議員から意見が出されたとき、保守派の議員から「そんなものは考えすぎだ。」「気にしすぎだ、安全なのだ」という意見が出された。しかし、政府が内分泌攪乱物質いわゆる環境ホルモンの害を指摘したところ、ころりと態度を変えて来たとともに、「あれは悪かった」と謝罪してきたそうな。
 こういうタイプの人はそれなりに人生経験を積んできたと思われる人たちにもけっこういる。おそらくはそのように権力ないしは(上)に阿て生きてきたのだろう。以前の職場にも多々いた。自称する知的レベルとも関係ないようだ。心のレベルの問題なのだ。
 こうした人たちは実に熱心に根拠なく権力側の代弁をしてくれる。そして権力側が見解を変えると狼狽えて自分もまた乗り換える、というふうにだ。安倍政権が沖縄いじめをしている現在、芸人には会っても、知事とは忙しくて会えないといういかにも中学生のいじめと同じ手口のいじめをしている現在、これに便乗するのがこうした手合いの連中だ。
 こういう「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」という生き方は日本人だけではないようだ。小熊英二が「弱者への攻撃 なぜ苛立つのか」(『朝日新聞』論壇時評 2017年12月21日)が木村忠正の発言を牽いて説明している。ヘイトスピーチのような弱者いじめは彼らがマジョリティとして満たされていないと感じているからなのだという。そうなのだ。彼らは常に満たされていないから弱い者に当たるし、自らの弱点は権力の後ろ盾でなんとかしようとする。そのようにしか生きてこられなかったのだ。
 例えば、安倍首相と加計学園の問題を採りあげると、「もうそんなことは議論する必要はない」と批判をつぶしにかかる方々がいる。そういう人たちはしばしば清廉な人たちでもある。ご自身は何の利権も得てないのに利権で潤っている人を庇おうとするのはなぜだろうか。それは彼らが清廉であるからなのだろう。清廉であるが故に清貧に甘んじてきたから、さらに弱い人たちが権利を主張するのが許せないのだ。
 小熊はドイツや中国にもそうした行動様式があることを指摘し、日本に限った事象ではないことを説明し、彼らのいらだちを弱者に向けるのを押しとどめることを提案している。僕もそう思う。
「あなたは利権を得ていない。わたしも得ていない。だからそれはわたしたちの利益の問題ではなくて、安倍の利益の問題だ。」「沖縄によってあなたは何の利益も得ていない。だからあなたが沖縄を責める必要はない。アメリカと安倍の利益の問題だ。」
 
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2017年09月16日

2017年06月23日

人権教育再考

福岡県人権研究所の機関誌『リベラシオン』にこんな原稿を書きました。

「人権教育再考」

『リベラシオン』には他にも興味深い記事が満載。是非ご購読ください。
『リベラシオン』は常に新しい情報を提供しています。人権問題、人権教育に関心のある方は是非当研究所の会員になっていただければお送りします。また、『リベラシオン』はそれだけの購入もできます。
お申し込みはこちらから・・・
福岡県人権研究所のホームページ
posted by 新谷恭明 at 11:24| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2016年12月14日

カツカレー蕎麦

 私見だが、もとい日本の麺類とカレーという外来種のマッチングというのは一つの冒険であったわけで、日本の伝統文化を重んずるタイプの人間や、何かと原点にこだわる人間にとっては「邪道」扱いしてきたのではないだろうか。いや、僕はそうしてきた。
 しかし、その相棒であるカレー自体がカレーライスとして日本の食卓に定着し、それはインドやタイなどのカレーなるものとは全く異なる日本料理であることも事実である。実際、長い時間煮込んで食材の旨みを引き出し、ある程度の粘性を持たせた日本のカレーはジャポニカ種の米を炊いた粘りけの多い「ご飯」によく合う。インドに行って、インディカ米にインドの「カレー」を手で混ぜ込んで食べるスパイスの香りいっぱいのとは全くちがう食べ物と言っていい。なにしろ牛肉や豚肉は食わないインドの産でありながら、日本ではビーフやポークを主役に抜擢し、あろうことか西洋料理のカツレツではなく〈日本独自の洋食〉とんかつなるものを載っけたカツカレーなどは日本の輸入文化以外ではあり得ない進化であったと思う。
 つまり、日本のカレーライスは十分に日本料理なのである。いわゆるカレー文化圏で仕事をしてきた友人に聞いたことがあるが、しばらくその辺りに滞在して日本に帰ると真っ先に食べたくなるのが日本のカレーライスなのだそうだ。
 そういうわけだから日本のカレーと日本の麺の相性が悪いとは言い切れない。実際、カレー南蛮というのは古くから蕎麦屋のメニューにあるし、蕎麦屋のカレーというのも独自のファンを持っている。幼少期に蕎麦屋でカレー南蛮の文字を見て惹かれるものがあったが、その頃は子どもの分際でそのような種物は頼めなかったことと、
「蕎麦っちゅぅのはねぇ、・・・」
と講釈をたれる訳知りのおとなに憧れていたので、ついぞ口にすることはなかった。
 それでもカレー饂飩には手を出したことがある。饂飩は蕎麦とちがっていろいろな味を受け入れる性質があるようだ。なので、鍋料理のシメなんかにもよく使われる。ご飯と同じようにお供によって引き立つところがあるのだろう。僕はササッと出汁にくぐらせるより、煮込みうどんとか鍋焼きうどんというように味を染み込ませたる食べ方が好きだ。それも饂飩が受け入れることで引き立つ魅力なのだろう。尤も、饂飩に一家言をお持ちの方には
「打ち立ての饂飩にちょっとの生醤油で行くのが最高よ」
という饂飩の美学を聞かされることもあるが、蕎麦好きからすれば、そういう状況では、
「生醤油が邪魔するね」
と蕎麦の味覚についての主張が出るだろう。実際、「もり」や「ざる」でいただく時はつゆもたっぷりとは含ませず、ちょこっとつけて啜るのがいいようだ。子どもの頃、『吾輩は猫である』を読んでいて、迷亭君が蕎麦を食う場面で「この長い奴へツユを三分一つけて、一口に飲んでしまうんだね。噛んじゃいけない。噛んじゃ蕎麦の味がなくなる。つるつると咽喉を滑り込むところがねうちだよ」と言うくだりに影響を受けてしまって、蕎麦というものを喰うにはそのようなうまく喰う作法があるのだ、そのような作法をこなすダンディズムを備えた大人になりたいと思うようになっていたから、余計そう思うようになっていた。後に父にそのように話したら、
「そうらしいな。ある蕎麦通がね、いまわの際にこう言ったそうな。『死ぬ前に一度つゆをたっぷりつけた蕎麦を食いたかった』ってな。」
と返されたのも今では思い出の一つだ。
 話を戻すと、蕎麦にはそうした作法がついてまわる。饂飩でそれをやるとどうにもいけない。蕎麦ならではの気取りというものがあると言っていい。先ほどの迷亭君も「饂飩は馬子が食うもんだ。蕎麦の味を解しない人ほど気の毒な事はない」と申しているのも気取りの有無が蕎麦と饂飩の間にはあるようだ。そう言えば、蕎麦を食うのを江戸っ子が〈たぐる〉というのもそうした気取りのなせるところだろう。
 まあ、饂飩のそうした鷹揚な性質から、ご飯同様いろいろな味付けを受け入れるところがあり、カレーうどんはむしろ定番の大衆メニューとして定着しているし、カレーうどんのマニアも多い。
 迷亭君に言わせると饂飩は馬子が食うものらしい。その含意は気取りの無いところであり、饂飩には主張する味が無いということになる。迷亭君は「蕎麦の味」を言うわけで、たっぷりのツユや種物などは邪道扱いされるのは当然のことだろう。
 『鬼平犯科帳』の中で料理通の同心である村松忠之進が若い同心の木村忠吾と蕎麦屋に入った時、天ぷら蕎麦を啜る忠吾に
「蕎麦というものはそんな食い方をするものではない。最近の風潮はわからぬ・・・」
みたいに嘆く場面があった。そう蕎麦の味を邪魔する天ぷら蕎麦のような種物も当初は邪道扱いだったのである。いや、僕は未だにそう思っているところもある。
 しかし、天ぷら蕎麦はうまい。
 日本の食文化は異質なものを採り入れ融合させて発展してきた。それが豊かな文化を育んできたのだ。だから日本では世界中の本場の料理が食べられるし、それらを適当に混ぜ合わせたエスニック料理とか、創作料理といったようなものが楽しめる。だからカレー蕎麦だってあり、なのだし、実際大昔からカレー南蛮なるものは蕎麦屋のメニューにあった。まあ、南蛮=外来種=邪道という位置づけはあったが。
 で、だ。友人がSNS上でカレー蕎麦を作ったということを書いていたので、おそるおそるやってみた。市販のカレールーひとかけが一杯分それを出汁でのばしてツユにする。蕎麦も適当な乾麺でやってみた。和風の出汁がいいのかと思っていろいろ試したが、素人が作ると洋風のコンソメのほうが相性がいいようだった。所謂「蕎麦の味」は乾麺とて相応の自己主張をする。それと自己主張しかないようなカレー汁がぶつかり合う。驚いたことにカレーうどんのように饂飩がカレーの味に染まっていくような融和状態ではない。たがいに主張し合ってそれぞれの味が前に出ようと鎬を削っている。それがいい緊張感を以て不協和音を奏でる。合わせようと和風出汁を使ってうまくいかなかったのはここだ。小賢しい妥協より、それぞれの自己主張をぶつけ合うのがいいようだ。心地よい緊張感の中で妥協せず、意見を言い合う。まさに共生の世界観が此処にはあった。以後しばらくの間カレー蕎麦にはまった。今も思い出したようにカレー蕎麦にする。
 Facebookの麺好きのグループで某店のカツカレー蕎麦の紹介があったのを拝見した。思わず、〈いいね〉にとどまらず、〈今度行きたい〉と書き込んでしまった。僕の中の古き伝統文化、気取りを超える一瞬であった。カツ&カレー連合軍はカツカレーというコラボの実績を既に新しい伝統の位置にまで引き上げている。蕎麦が負けずに自己主張をしてくれれば、これは僕の人生を一歩進めてくれるものになりそうだ。
posted by 新谷恭明 at 12:13| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2016年11月15日

 「創世記」の第3章といえば蛇にだまされるところ。なぜ神は園の中央に生えている木の果実を食べてはいけないと言ったのだろうか。食べてはいけないと言われれば食べたくなるものである。蛇が唆したにしてもそのような禁止を投げ出しておいたということは、その禁止がいつか破られることを神は想定していたにちがいない。いやむしろそのことをねらって仕組んだトラップだったのかもしれない。
 この禁則を破ったところで神の問い詰めに対し、ここに登場する者たちはみな人の所為にする。アダムは女がよこしたと言い、女は蛇がだましたと言う。まず最初の罪は禁則を犯したことであり、次に責任の回避だ。
 そして神はアダムと女に「皮の衣を作って着せられた」とある。最初の衣服は動物の命を犠牲にしたものである。これが三つ目の罪か。
 「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」と神は言ったが、善悪の知識を知ることで人間は動物と同様の存在から神に近い存在(=人間)になる。そのことで人間はサルトル風に言うなら即自存在から対自存在になったのか。先日、講義でボーヴォワールを引用した。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という有名な一節がある。その後に「他人の介在があってはじめて個人は〈他者〉となる。子どもは自分に対してだけ存在しているかぎりは自分を性的に異なるものとしてとらえることはできない」と書いている。つまりは善悪の知識の木の実を食べたことで人間は〈他者〉を知ることになったのだ。これが罪の元凶なのだ。つまりは〈他者〉によって自己を知り、自己を位置づけていく。それはそのように自己を形成するばかりではなく、〈他者〉もまた相互に形成し合い、社会を構築していく。人間の社会と動物の社会のちがいはそこかもしれないが、これもまた罪深い。社会が固まって国家や民族を構成するとき、それは戦争の単位を作ることになったのだから。
posted by 新谷恭明 at 20:17| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする