2017年02月22日

部落史学習の教材とその使い方

 西南女学院大学で「人権と社会」という講義を担当していて、その前半は部落史に割いている。もうだいぶ前のことになるが、栗山煕学長(当時、故人)から電話がかかってきてこの講義の非常勤講師を委嘱された際に、栗山学長から
「人権問題の基本は部落差別の問題なので、重点的にやっていただきたい」
という言葉を添えられたおかげでもある。
 それはさておき、講義では前近代の差別について説明した後に解放令、新政反対一揆、近代的差別の発生、部落改善運動、水平社の盛衰というような流れで組み立てている。重要なのは差別というものが何であるか、という問題だ。言葉としての差別は前近代について講ずるときも便宜上使うことになるが、近代的意味で使う「差別」と前近代で使う「差別」では意味がちがう。近代的用法で「差別」と言うとき、それは市民としての平等、人権の保障という前提の上で、それが実施されていないときに使われる。前近代社会では人権という概念がないし、身分社会なので、人間がみな平等であるという考え方はしないからだ。
 その意味では近代国家たろうとした明治政府が始めた施策に於いてはじめて差別の有無が問われることになったのである。こうした時代の転換、近代国家の形成、近代的差別の発生と克服といったテーマは中学校における教科学習でも同じ問題意識で考えることができよう。但し、中学校では教科教授が基本であり、部落史学習に何時間も費やすことはできない。あくまで教科教育の中に位置づけていかなくてはならないという制限が存在するし、それは教科の性格上、というより日本史通史の性格上当然のことである。
 本稿ではまず、解放令、新政反対一揆の扱い方について検討し、それから水平社に至る五十年ばかりが教育現場ではブランクになるという現状と展望について検討してみたい。

Ⅰ 「解放令」の扱いについて
 ここでは中学校の教科書として『新編 新しい社会 歴史』(東京書籍)を使う。ということで、190頁「「解放令」から水平社へ」を開く。ここではまず「解放令」を読み下したものが資料として紹介されている。
┌──────────────────────┐ 
│ 「解放令」 (1871年8月28日太政官布告) │
│えたひんの称を廃し身分職業共平民同様とす。 │
└──────────────────────┘ 
 実際の「解放令」の文言も挙げておこう。
┌────────────────────────────┐ 
│  太政官布告第四八八号 │
│穢多非人等の称被廃候条自今身分職業とも平民同様たるべき事│
│辛未 八月           太政官 │
└────────────────────────────┘ 
 驚いたのが、検定済教科書であるにもかかわらず、誤解を招く表記がされていることだ。まずは日付である。「1871年8月28日」となっているが、これは布告に「辛未 八月」と記されているものを辛未→明治4年→1871年と換算していったものであろう。しかし、まだ旧暦の時代であって、辛未8月は明治4年10月12日に相当する。もし、西暦で書くのならば1871年10月12日とすべきところであろう。歴史の教科書にこういうまちがいを書かれると非常に困る。明治5年12月2日から3日に歴史のモノサシ自体が変わったということはとても大事なことだし、解放令がエアコンのない時代に残暑きびしい季節ではなく、秋風が吹き始めた頃であった、という歴史の実感を子どもたちに感じてもらうことも大切なことであるからだ。
 次に「穢多非人等」となっていたものが「えたひにん」と読み替えられ、「等」が落ちてしまっているのである。この「等」の中に前近代における更に多くの賤民と位置づけられる人たち(以下「賤民」とする)が含まれており、その賤視の構造を解明する手がかりが含まれているのである。それは死にまつわるケガレ意識であろう。但し、歴史という教科の中ではそれはスキップしてもいいかもしれない。
 で、この「解放令」が差別はいけないとする善意の官僚によって出されたものではないということを理解せしめなければならないだろう。「解放令」は単独の思いつきや、「賤民」たちの運動によって引き出されたものでもない。この国が日本という近代国家として国際社会にデビューしようとするとき、これは必要な課題だったからである。
 近代国家として必要なことはまがりなりにも市民社会を構成していることが条件である。つまり、廃藩置県、地租改正、徴兵令、学制などと一体の改革なのである。そしてこれらに通底しているのが国民という概念である。もちろん、明治政府の施策は完璧ではなかったし、差別主義者はわんさといたわけであるから、「差別は根強く続」*1くのは当然である。学制も就学率がすぐに向上したわけではないし、徴兵を免れようとした人間も、脱税をもくろむ人間もいたのである。しかし、学校へは行くべきだし、兵役も務めなければならないし、税金も払わなければならないということは原則であり、「解放令」以降、差別もしてはならないことであった。それが近代国家なのである。だから、被差別部落の中から成功者が出ても制度上問題はなかったということになる。近世ではそうはいかない。穢多身分の人間はその身分を超えたところで成功者になるはずがなかった。身分とはそういうものである。「解放令」はそうした身分の境界を取り払い、同じ国民としたのである。
 重要なのはこれらの施策を一体として考えなければならないということである。それが近代国家への転換である。明治6年に西日本一帯で発生した新政反対一揆の要求にはこれらがすべて盛り込まれていた。それはたまたま不満が一つずつ集まってきたということではない。一揆勢は突然降ってきた「近代」に対して抵抗したということなのだ。だから、この一揆勢を「管内頑民暴挙」*2と権力は罵ったのである。近代化の意味を解さない「頑民」なのであった。
 新政反対一揆はこのような近代に抵抗する動きが権力側ではなく民衆の側にあったということをきちんと学ばせるべきであろうし、このとき「近代国家の国民となった」ということに於いて日本では初めて人権というものが発生したということ、また差別もまた同じ人権を持っているにもかかわらず扱いがちがうがゆえに差別となったのだということを学ばせるべきなのである。それが教科としての「社会科」の役割なのである。
posted by 新谷恭明 at 18:00| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする
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