2017年02月09日

試験とかレポートとかその2

 試験問題についても設問には注意が必要であろう。学生諸君は講義中に学んだことと試験問題を全く別のことと考えているようなのだ。これはどことは言わない某大学の話。講義中に哲学的に教育と文化を論じた論文を解釈し、家族史の概要を説明し、学校論や識字論を講じた。そんな中で出てきた用語を枠の中にポンと散りばめ、そのうちの2語以上を使って教育について、自由に論ぜよという問題を作った。だから枠の中には、〈文化、子ども、ジェンダー、幻想、言語、欲望、近代家族、夜間中学、分節化、卓袱台、団欒、学校化、自然〉といった単語が並び、これらを使って何か論ぜよという問題なのだ。恐らく講義で触れた文化論や近代家族論、はたまた学校論などに切り込むようなことを書いてくるかと思ったが、これも大失敗であった。
 なんとも自由にそれらの単語をついばみながら論旨の定まらないものを書かれてしまったのだ。講義中の議論は全く登場しない。文章としてのつじつまはあわず、お題としてそれらの単語が使われただけであった。たぶん何の学びにもなっていない。枠内の単語が使われ、一応文章になっていれば(一応、である)問題ないでしょう、という解答ばかりが出てくる。誰一人講義で何を学んだか振り返ろうとはしていない。持ち込み自由だから、何を学んだかを振り返るだけでいい答えがかけるはずなのに、わざわざそれとは遠い作文をしてくれたのだ。あまりに愉快なので紹介したいが、やめておく。
「いったい何の試験だと思っているのだ!」
と問いたくなったが、これはこういう問題を出した僕のミスである。学生諸君はまちがっていない。問いで問われたとおりのことをしただけで、出題者の意を汲まなかっただけに過ぎない。それは出題者の意を説明しなかった出題者が悪かったということになる。それらの単語を使ってともかく作文になっていればいい、と解釈されて、「そうじゃない」という根拠はどこにもないもんなあ。
 ここでも深い反省。問題の説明は叮嚀に。これでもかというほど叮嚀にしなければならないということだ。
posted by 新谷恭明 at 15:50| Comment(0) | 講義日誌 | 更新情報をチェックする
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