2017年02月09日

試験とかレポートとかその1

 最も気が重いのが採点である。つまり、学期末試験の採点・評価だ。大学の人文社会科学系の科目は単純な暗記問題とか、いわゆる正解とかはないので、問題の作成も難しいが、採点も難しい。なにしろ時間もかかるし、期待した解答からの逸脱ぶりに動揺すると同時にその評価をどうするかでまた時間を食う。おかげでこのような文章を書かないと気が滅入ってしまってどうしようもなくなってしまう。
 そしてこのような文章を書くことで次回の反省とし、もっといい問題を作るための材料にしたいのだ。
 まずは某大学でのレポート課題だ。
「現代の人権問題と優生思想」
 ふつうこういう問いを立てられたら、現代の人権問題の中にいわゆる優生思想がどういうふうにに現れているかとか、現代の人権問題を特徴づけるものに優生思想があるのではないか、というようなレポートを書くのではないだろうか。少なくとも現代の人権問題と優生思想の関係を論じようということくらいは常識的に想像がつくと思われる。
 しかし、これを「現代の人権問題」と「優生思想」と理解し、前半で現代の人権問題をあげ、後半で優生思想の説明をするというものが3分の1強にのぼった。しかも、「現代の人権問題」の5つほど列挙し、「優生思想」を6つ目くらいの位置づけで説明するものがそのほとんどであった。(と)で対等に結びついているともいいにくいのだが、それでも(と)という接続詞を使って紙面上に並べられている。当然、優生思想については数行で終わる辞書的説明程度の記述になり、論じることはまあ、無理になるということだ。
 この書き方は確かにまちがいではない。「現代の人権問題(と)優生思想」というふうに(と)という接続詞で二つの言葉をつないだ課題であったからだ。だから不合格にするわけにはいかない。何が悪いかと言えばそういう誤解を与えるような出題をした僕が悪いのだから。そうすると困ったことになるのが、「優生思想とはこれこれこういうことである」と数行書いただけのものを合格にしてしまうと僕の当初意図していたことに応えた書き方をしたものはそれ以上の評価にせざるを得ない。また、後半の記述もがんばって「優生思想とはこれこれこういうことである」にとどまらず、それなりに、つまりは10行以上の議論を展開した学生にはそれなりの高評価をせねばならなくなってしまった。
 課題の文面はよくよく吟味しなくてはならないということだ。
 
posted by 新谷恭明 at 15:32| Comment(0) | 講義日誌 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください