2015年11月24日

樋口長市は新教育の裏切り者かⅡ

 和崎氏と志村氏の論文を見つけ出した。それと森田美比『菊池謙二郎』(耕人社 1976)。そんなものを並べながら、川井訓導事件及び自由教育の弾圧について考えてみる。
 和崎光太郎「大正自由教育と『赤化思想』」(『信濃』59 2007)によれば、中野光の諸論攷、『長野県政史』を引いて「従来の研究では、県当局による自由教育弾圧の一環として説明されるか、もしくは県当局と信濃教育会との教育界人事権の争奪戦の一環として説明されるにとどまっていた」と言う。そして和崎は赤化青年の勢力拡大に対する県当局の危機感が背景にあったと言う。
 まず、和崎論文では小松訓導冤罪事件をとりあげ、この事件で問題となったのは「気分教育」と「赤化青年」であったとしている。「気分教育」について、和崎は「白樺派教員が中心となって実践していた自由教育を非難・弾圧する側が、その自由教育を指して使用していた言葉である。ゆえに、実態として「気分教育」という教育実践が存在したわけではない。しかし一方では、県下教員の中には、「気分教育」と称して怠惰な教育を行っている者もいた」という。しかし、そうした教育は手塚岸衛の主唱した「自由教育」とは全く異なったものであることは手塚の著作を見れば一目瞭然であろう。小松の懲戒免職処分の理由について、第一に「誤られたる自由教育方針の下に教課科程を自己の都合にて随意に変更し或る学科の如き全然教授を怠った」ことを挙げている。ここに「自由教育」の文字は記されているが、あくまで「誤られたる自由教育」なのである。第二、第三の理由は「成績考査を行はない」「平素報効が不確実」というように、「怠惰な教育」が理由となっていたのである。
 次いで和崎は飯田小学校事件に言及する。ここで樋口長市が登場する。樋口は長野県臨時視学委員として北信を長田新、南信を樋口長市に担当させた。和崎が『信毎』の記事からこの視察は「県下教育界に於ける綱紀退廃の対策」であり、「特に問題の頻出する下伊那郡教育界に対しては徹底的視察を行ふ」としたもので、当初から〈弾圧〉は想定されていたと考えられる。果たして、標的とされた飯田小学校では樋口による教育内容・教授方法に対する過激な批判が行われたのである(飯田小学校事件)。和崎は、県当局が〈「気分教育」=「赤化思想」の温床〉という発想で一連の白樺派教員の弾圧をおこなってきたものであり、飯田小学校事件も「当局によって意図的に引き起こされた」と見ている。川井訓導事件はこの2日後に起きたものであり、一連の弾圧の流れに位置づくものとこ見ていい。川井訓導が樋口によって非難されたのは修身科の授業に於いて教科書を使用しなかったからである。それは言いがかりであったのかもしれない。理由が何であれ、樋口は松本女子師範附属小学校の授業を酷評しなければならなかったのであろう。和崎は『信濃教育』の記事を引用して、「視察後の批評会では、飯田小学校の場合と同様に各授業が一方的に批判された」と言う。その中で川井訓導は最も不幸な人物となったということなのである。
 こうした「当局の強圧的姿勢を批判する声は、新聞紙上などで強まる一方であった」(和崎)のであるから、これは県当局の赤化青年掃討のやり方に対する批判であったのか、「赤化青年」と「気分教育」「白樺派教員」などがいっしょくたにされ、その煽りを信濃教育会が喰らったとも言える。いずれにせよ、樋口を含む「八大教育主張」に象徴される大正新教育が弾圧されたということとは異なった力学があったと言うことができる。
 また、この時期は果たして教育の「国家主義的」再編の時期なのであろうか。和崎は、中野光が『大正自由教育の研究』(1968)に於いて県知事の「長野県の教育を国家主義的に再編しようとの意図」をもっていたと推論していた事について、「赤化思想」に対する当局の危機感が川合訓導事件を引き起こし、それが教育の国家主義的再編のスタートラインとなったとまとめているが、日本の近代教育史において、国家主義的ではない再編が行われた時期があったであろうか。明治新政府が樹立してからの近代教育の展開は休むことなく国家主義的に進められてきたのではなかったか。
 第一次世界大戦、ロシア革命という国際状況は国家主義を強固にしていく過程でもあったわけで、臨時教育会議では兵式体操振作の建議が提出され、文部省内には社会教育課がつくられていく、そうした国家主義的な動きは一貫して進んでいたと言えよう。一方で、社会主義的な思想や労働運動、水平運動などの社会運動も勃興してきた。というような状況の中で国家に敵対する動きというのは何であり、国家に与する動きとは何であったか。それを見極めていく必要があるし、その時代に国家が弾圧しなければならなかったものに大正新教育は含まれていたのだろうか。
 少なくとも川合訓導事件は大正新教育のどの部分に弾圧を加えたのだろうか。
posted by 新谷恭明 at 11:16| Comment(1) | 研究ノート | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
興味深く拝読いたしました。

とりあげていただいた拙稿をまとめた後(実は一本目の修士論文なので脱稿は2003年、私が20代前半の時です)、私は樋口の思想分析に取り組みましたが、力及ばず挫折しました。
しかし、あつめた史料等はダンボールに入れてとってあります。
幼児教育、「劣等児」教育、自由教育、比較教育という4つの面をもった樋口の思想分析により、明治後期から昭和戦前期の教育がいったい何をしようとしていたのか、我々の知らない何かがそこにあり、その正体がわかるような気がするからです。
先生にあらためて光をあてていただき、とても嬉しく思います。

さて、最後のところですが、私の言う国家主義的には、「」がついています(拙稿10頁上段)。
つまり、中野光がそう言っているということです。
私には正直言って、中野氏が語る「国家」が何なのか、わかりません。
1900年頃の「国家」と、1920年代半ばの「国家」は別物ですし、もちろん啄木が時代閉塞を嘆いた1910年頃の「国家」もまた別です。
国家主義も、国学と同様、時代と論者によって違うものだと認識しています。

また、「教育の『国家主義的』再編のスタートラインとして位置づけられている川井訓導事件」という私の表記は、誤解を招く表現でした。
「位置づけられている」というのは、私が位置づけたということではなく、中野氏がそう位置づけてきた、ということです。
先生のおしゃる、近代教育の展開が休むことのない国家主義化であること、私も強く同意いたします。
だからこそ、国家や目指すべき理念としての〈国家〉がかわるたびに、やたらと勅令やら訓令やら弾圧やらが出てくるのでしょう。

この拙稿は、平和運動や環境運動などが「サヨク」としてひとまとまりにレッテルを貼られていた当時の風潮への疑問が、背景にあります。
このようなレッテル貼りがいつから行われるようになったのかなあ、という疑問です。
川井訓導事件は、修士課程対象の船寄先生の講読の授業で知りました。事件に興味を持ち、先行研究を読めど満足できず、夏休みに長野県に1週間ほど行って史料をかきあつめて読みこんでいたら、上記の「疑問」とリンクした、という次第です。


思わず長文になってしまい、恐縮です。
今後も、楽しく拝見させていただきます。
Posted by 和崎光太郎 at 2015年12月28日 21:03
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