2017年07月26日

試験ではなくふりかえり

 前期の講義日程が終わりつつある。「教育方法論」(3年生)、「教職概論」(2年生)については授業期間内に評価のためのデータ収集をおこなった。試験は来週から定期試験期間に入るのだが、教職課程担当としては学生の負担を分散するというやさしさから、授業期間中に成績評価のためのデータを集めることにしている。昨年度は4題ほど問題を出して書かせていたが、これからの学生に獲得してもらいたいのは以下の資質・能力であると中央教育審議会では申している(「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)」平成28年12月21日)。
①「何を理解しているか、何ができるか(生きて働く「知識・技能」の習得)」
②「理解していること・できることをどう使うか(未知の状況にも対応できる「思考力・判断力・表現力等」の育成)」
③「どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか(学びを人生や社会に生かそうとする「学びに向かう力・人間性等」の涵養)」
 まあ、初等中等教育の目指す資質・力量だから、大学生なら当然持っていなければならないものだ。
 で、今年はそのように変えてみた。
「教職概論」ふりかえり課題
教職概論」振り返り用紙

「教育方法論」ふりかえり課題
「教育方法論」振り返り用紙

A4で印刷するとおおむねぶたさんの鼻先で原稿用紙2枚程度になる。ちょっとした小論文問題だ。
そして時間は講義時間終了までとりあえずやってもらった。で、ぶたさんの鼻先に達していない学生及び提出するにはまだ不満足な学生は後で提出してもいいということにした。おもしろいことに3年生に持ち越しが多く2年生にはごくわずかしかいなかったことである。
さらに課題の紙には余白を多くし、自由に使っていいと言ったにもかかわらず、そそくさと書き始める学生が大半であった。それだけの長文を書くのに構想無し、構成の検討無しに書くというのは乱暴だな、と感じた。今後の課題だろう。
 しかし、読むのは辛い。いろんな意味で。
posted by 新谷恭明 at 16:12| Comment(2) | 講義日誌 | 更新情報をチェックする

2017年07月22日

佐々木盛雄『天皇制打倒論と闘ふ』第二章④

 今度は「法律的主権在民を主張する論」だ。「民主々義を観念的に定義し、天皇制は民主々義と絶対に相矛盾するが故に、これを廃止せよと云ふ論がある。そしてこの天皇制廃止論の基礎となす民主々義の定義は、リンカーンの『人民の、人民による、人民のための政治』といふ概念である」とこの説の概略を紹介している。それは「政治の主体が人民であるといふ意味」であり、「人民の福利安寧を目的とする政治、従つて一特定人の利益や、一階級の利益を目的とする政治ではない」とまとめる。だから「主権在民」と「天皇制の観念の中にある『主権在君』とは、根本的に調和しない」とするのが、この論の論旨だとする。
 としたところで、佐々木は「然しながらわれわれは、斯くのごとき幼稚なる処世論に賛成するわけには行かぬ」と反論を始める。その基本的思考の柱は「主権在民は民主々義の要素であることに異論はないが、然し、われわれの云ふところの主権在民とは『実際的政治的意味』に於ての主権在民であり、『形式的法律的意味』にをいての主権在民ではない」というところにおく。佐々木が基本的に民主主義を主軸とし、主権在民を是とするスタンスを保って議論するつもりなのである。
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 かくの如く民主々義は、その共通の観念においては、人権の尊重、自由、平等の欲求であり、この欲求を達成するために、実際政治の上において人民が最後の決定権を持つことであり、換言すれば『実際的政治的意味においての』主権在民なのである。従つて「形式的法律的」な主権在民は決して民主々義の基本条件ではないのである。そして。形式的、法律的な主権在民が、民主々義の基本条件でないとすれば、何故に彼等は形式的主権在民を金看板として、天皇制廃止を唱へなければならぬのであるか。
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 少なくとも佐々木は民主主義が前提であり、天皇制は民主主義と矛盾することはないと言っている。このことは重要である。たとえ占領下という時代状況下であったにしても、佐々木は民主主義者であったのである。
 そして佐々木は以下の様に結論づける。
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…凡そ民主々義を確立するにあたり、『法律的形式論』のみを振りかざして是非を判断することではなく、『実際政治的』にものごとを判断し、実行せねばならぬことである。だから形式的な主権在民の看板を押立ずとも、実質的に主権在民を達成すればそれで充分であり、何を好んで形式的法律論に拘泥して、二千年来の安定勢力たる天皇制を廃止する必要があらうか。
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 やや苦しいが、実質的に民主主義を確立すれば天皇制をなくす必要はないという言い分となる。
posted by 新谷恭明 at 15:54| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする

2017年07月21日

佐々木盛雄『天皇制打倒論と闘ふ』第二章③

 さて、三つ目は日本歴史を虚偽なりとなす論だ。天皇制については「全く作為的な神話や、虚偽の歴史によつて作られたものであつて」「誤つた基礎の上に立つた天皇制は断じて維持されるべきものではない」という考えのことだ。
 この論者は「神話はその時の支配者を合理化するか、或は賛美するために作られたものである」と言うのであり、佐々木は「聖徳を景仰した人々が、その由来するところを、古代人に特有な宗教的感情をもつて伝承したものであるかも知れぬ」し、「当時の日本人の社会、生活風俗並びに日本人の考へ方そのものもあにはれてをり、この意味においては神話もまた一つの真実を伝へてゐるもの」だと反論する。
 また、「日本紀元の二千六百余年説への疑惑」「皇統の連綿性」なども「枝葉末節の問題」に過ぎないという。そして、以下のように言う。
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 なるほど日本の天皇は、或は始めは征服者であつたかも知れぬ。7そして被征服者の中には異民族もあつたであらうが、長き歴史の間に、婚姻やその他の同化作用によつて一つの日本民族に帰一しその民族の代表者として現れたものが天皇である。
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 このように天皇や民族を理解してしまえば、多少の史実のまちがいは天皇制を否定する論拠にはならないというのが佐々木の反論の趣旨である。
posted by 新谷恭明 at 16:52| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする