2017年04月24日

被差別者としての善きサマリア人



 4月20日のチャペルの時間はルカによる福音書の10章25節~37節、あの有名な善きサマリア人のたとえが引用されていた。話を聞きながら(話はだいぶ聖書とは異なるものだったが)、僕もまたこのたとえについて考えていた。なぜならばこの日の午後は「人権と社会」の2回目の講義で、「差別とは何か」について考えることにしていた。ただ、この回でやる内容はこの講義から外したいなとも思っていたが、悩んだ末やはりやることにしていたのだ。なぜ外したかったかというと、どうしても学術的と言うより、教訓めいた話になりがちだし、方法論的にもどうかと思うところがあるからだった。教訓めいた話は「倫理観を強要しない」というこの講義の趣旨にも反することもためらいの一つである。
 しかし、今日のチャペルの時に気づいたのだが、サマリア人とはたしかその当時の被差別民ではなかったか、ということ。司祭が登場して通り過ぎ、レビ人が登場して通り過ぎていくのに彼らについて何も説明はない。というより、この3人が、3人の人間の種類が出てくる理由は何か。それはレッテルであろう。司祭という人たちはどういう人たちか、レビ人とはどういう人たちか、そしてサマリア人とはどういう人たちか。
わざわざこれら3種類の人間を出したのには意味がある。個々の人間ではなく、その人間の属性に意味があったのだ。司祭とレビ人について説明がないのは聖書を読むものにとっては彼らのレッテルの意味が多分常識なのだろう。司祭は聖職者であり、レビ人は神を祀る幕屋の管理をするべき人たちだからだ。この二つのタイプの人たちは宗教的に特別の役割を担った人だということだ。
 これに対し、サマリア人は被差別民だ。このことは重大な意味を持っている。
 そして、この逸話の場合、教訓は、①サマリア人のしたことと ②追いはぎに襲われた男との二重の構造を持っている。つまり、①窮地にあった人を助けた人はたとえ被差別民であっても隣人だと言うこと②被差別民を助けた人が被差別民の隣人であると言うことである。
 一般的にはサマリア人が何者であれ、追い剥ぎに襲われた男を助けた人物が男の隣人だという解釈である。犬養光博氏は追いはぎに襲われた人を筑豊で出会った被差別民だという理解で自分は彼らの隣人たり得るか、と考えた。同じように、キング師は追いはぎに遭った人を黒人と見て、重症を負った黒人をいくつもの病院が受け入れを断った話を例に出し、誰も被差別者である黒人の負傷者の隣人になろうとしなかったと言ってたようです。これについては出典を確かめたいと思うが、いずれも追い剥ぎに襲われた男の隣人に君はなり得るか?という問いかけとして理解している。
 一方、マーチン・ガードナーは『奇妙な論理』においてレイシストの分析をしている(「憎悪を煽る人々―人種差別の『科学』的基礎)。ガードナーは蕩々とレイシストたちの人種差別肯定論の非科学性を論ったところで次のように記している。

 だれでもよきサマリア人のたとえ話を覚えているだろう。だが、イエスが愛されるべき真の「隣人」の例としてサマリア人を選んだのは、古代エルサレムではサマリア人が軽蔑された少数民族だったからだということを、悟る人は殆どいない。「サマリア人」のかわりに「ニグロ」をおいたときはじめて、あなたはこのたとえ話の意味を、当時キリストの言葉をきいた人々が理解したとおりに、理解するはずである。

 うむ。再び聖書を読んでみる。律法家は「では、わたしの隣人とはだれですか」とイエスに問うたのだ。そしてイエスは「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と 答えたのだ。そして、

律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(37節)

 問いに対する答はまずは「君の隣人はサマリア人だ」 ということともとれる。ただ、「行って、あなたも同じようにしなさい。」というのが、「行って追い剥ぎに襲われてみろ」とは思いにくい。だから二重構造なのだろう。自分がつらいときに助けてくれる被差別民が隣人であり、つらい人を助ける時、「君はその人の隣人になれる」という答になる。
 イエスは「君も行ってそのサマリア人のように人を助けなさい」と言ったと同時に、「サマリア人(=被差別民)もまた君の隣人なのだ」と言っているのであると考えられはしないか。そうして万人への愛を説いたのだ。

※聖書が手元にない人のためにその箇所を引用しておく。
ルカによる福音書第十章二十五節~三十七節
 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
posted by 新谷恭明 at 00:19| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする

2017年04月16日

教育勅語を正しく読もう


 明日の教職概論で教育勅語を学ぼうと思う。
 まずは前近代の子どもたちの育ちと学びについて考える。
次いで近代国家としての日本の子どもたちに期待された育ちと学びについて考える。ここで明治国家の教育観である教育勅語について学ぶ。そして戦後の日本国憲法下での子どもの位置づけ。競争主義社会での子ども観の変化。
高度経済成長後の子どもをめぐる環境の変化。そして現代の子どもの置かれテータ状況についての考察。
そんな形で授業を進めたい。
 ということで教育勅語を完訳しなければならなくなったので、杉浦重剛『倫理御進講草案』及び井上哲治郎『教育勅語衍義』の解釈に準拠しつつ現代語に訳出してみた。尤も、それぞれの表現の内容にまで踏み込んで両著は解説しているが、その趣旨を訳文に一言で表すのは難しい。例えば「夫婦相和し」を訳すと「夫婦仲良く」になるのかもしれないが、それでは井上、杉浦両先生は激怒されるであろう。人口に膾炙している国民道徳協会とやらの訳は「夫婦は仲むつまじく解け合い」となっているが、これもまた不誠実な訳文である。両著の解釈は夫婦の関係性を丁寧に説明している。井上は「妻ハ元ト智識才量多クハ夫ニ及バザルモノナレバ、夫ガ無理非道ヲ言ハザル限リハ、成ルベク之レニ服従シテ能ク貞節ヲ守リ」云々とある。現代語で言うと「妻はもともと知識や知能、度量はたいてい夫には及ばない。だからよほどひどいことをしない限りは夫には服従し、貞節を守るでんでん」と書いている。その関係性を現代語で表現するまでには至っていないかもしれないが、なるべくそうした碩学の解釈を生かした訳にしてみた。
 「朕」は「私」ではなく、天皇にしか使わない用語であり、杉浦重剛もかなり執拗にこのことには説明をしている。朕は天皇にしか使わない呼称なので、「天皇である私」というようなしつこいくらいの強調になってしまったが、「朕」事態にはそのくらいの重みと意味があるのだ。その文意が込められている「我ガ」などもそのように訳した。ともあれよりよい訳があればご教示願いたい。

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新谷版現代語訳
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朕(天皇である私)が考えるに、私と私の子である臣民のご先祖様がこの国を造ったのは天照大神以来の神話に由来するものであり、代々の天皇は国民に深く厚く徳を植え付けてきたということである。天皇である私の臣下である臣民は親に孝行をするように私に忠を尽くしなさい。日本は世界に類例のない素晴らしい国だ。だから、天皇の臣下である臣民はいつの時代も忠孝の道を実践してきた。そうした歴史が何より大切であり、教育の原点なのである。おまえたち、私の臣下である臣民よ、親の恩に対して孝行で報いること、兄弟は長幼の序の元に仲良くすること、そのように家族を大切にすることが国家・国力の基本となる。殊に夫婦が家を作るのであるから、それは国家の大本になるので、その関係は最も大切である。また親しい友との間には信義が必要である。謙虚であり、質素であること、自分を捨てて他人のために力を尽くすことがたいせつであり、それは国家のあり方にも通ずる。学問を学び仕事を身につけ自分の能力を高め、徳を身につけることは一家のため国家のために大切である。そして自分のためにではなく国家、社会の利益を考えよう。帝国憲法を重んじ、臣民として国法に従うこと。また、国家に危機があったときには一命をなげうって尽くさなくてはならない。そして皇室の発展のために少しでも役立つようにしなければならない。このことは天皇の臣下である臣民が今従順な臣民であることはもちろん。おまえたちの祖先がそのようにしてきたからだ。忠孝を第一に思う教えは私の先祖が遺してきた教えであり、その子孫である私と私の臣下である臣民はともに護らなければならないものである。そして忠孝の教えは今も昔も正しいし、外国でも正しい道徳のはずだ。天皇である私は私の臣下である臣民とともに決してこの教えを忘れず、だれもが同じ忠孝の教えを守ることを願うものである。



posted by 新谷恭明 at 21:37| Comment(1) | 研究ノート | 更新情報をチェックする