2016年11月15日

 「創世記」の第3章といえば蛇にだまされるところ。なぜ神は園の中央に生えている木の果実を食べてはいけないと言ったのだろうか。食べてはいけないと言われれば食べたくなるものである。蛇が唆したにしてもそのような禁止を投げ出しておいたということは、その禁止がいつか破られることを神は想定していたにちがいない。いやむしろそのことをねらって仕組んだトラップだったのかもしれない。
 この禁則を破ったところで神の問い詰めに対し、ここに登場する者たちはみな人の所為にする。アダムは女がよこしたと言い、女は蛇がだましたと言う。まず最初の罪は禁則を犯したことであり、次に責任の回避だ。
 そして神はアダムと女に「皮の衣を作って着せられた」とある。最初の衣服は動物の命を犠牲にしたものである。これが三つ目の罪か。
 「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」と神は言ったが、善悪の知識を知ることで人間は動物と同様の存在から神に近い存在(=人間)になる。そのことで人間はサルトル風に言うなら即自存在から対自存在になったのか。先日、講義でボーヴォワールを引用した。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という有名な一節がある。その後に「他人の介在があってはじめて個人は〈他者〉となる。子どもは自分に対してだけ存在しているかぎりは自分を性的に異なるものとしてとらえることはできない」と書いている。つまりは善悪の知識の木の実を食べたことで人間は〈他者〉を知ることになったのだ。これが罪の元凶なのだ。つまりは〈他者〉によって自己を知り、自己を位置づけていく。それはそのように自己を形成するばかりではなく、〈他者〉もまた相互に形成し合い、社会を構築していく。人間の社会と動物の社会のちがいはそこかもしれないが、これもまた罪深い。社会が固まって国家や民族を構成するとき、それは戦争の単位を作ることになったのだから。
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素直に理解

 学生たちに課題と称して毎回何か書いてもらうことにしている。そのことによって自分の講義で伝えようとしたことが、どの程度またどのように理解されているかがわかる。講義であれ、授業であれ、教員が何らかの知を伝達しようとしているのであるから、それがどのように伝わっているかを確かめることは次の講義ないし授業のためには必要なことである。
 で、だ。戦後の昭和22年、最初の学習指導要領が作成された。周知のように(試案)と付され、、社会科や家庭科、そして自由研究などが入った経験主義的な内容のものである。その内容を本文を資料として配付したのでそれを見ながら講述した。ついで昭和33年の学習指導要領の説明をした。こちらは告示として出されたがゆえに法的拘束力を持つとされる。そして自由研究は消え、特別教育活動が位置づけられた。以後問題を抱える特設道徳が登場したことでも意味は大きい。
 そして課題は「昭和33年に改訂された学習指導要領がその後の教育課程に与えた影響は何か」というもの。
 学生諸君は素直に習ったことの要旨を書こうとする。第一に(試案)から告示になり、法的拘束力を持つようになったことに何の問題も感じたりはしない。よりよいものに整備されたというふうに理解していく。特設道徳も天野発言なども講義では言及したが、道徳はいいものというふうに素直に受け止める。道徳教育をすることで子どもたちは道徳的に正しく育つようになった。というのがほぼ共通している。だから道徳の教科化に影響を与えたし、それはいいことだ。と見るようだ。中には「なぜ日教組は反対したのだろう?」と素朴な疑問を呈する学生もいた。
 あの時代(保革の対立)を体験した人間の持つ感覚はない。素朴に道徳教育は定着した。経験主義から系統主義に変わった。それだけのことですが、何か?というふうに歴史に実感は持たないで答えを求めようとする。歴史的な把握なのだから、そう問題はないのだ。寛政の改革についてわれわれがどういう問題意識を持っているか、と問うときとそう変わりはしない。
 近現代史はもっと現在にかかわる問題だと言ってもやはり自分の生まれる何十年も前の話には実感は伴わない。それと、現状の教育問題についても「いじめはよくない」以上の掘り下げはなく、だいたい今の教育で満足と思っているようだ。ま、「ゆとり世代」なので、それに対する批判は受けているらしいが、その頃の答申等を見たときは自分たちに貼られたレッテルの名誉回復はしたようであったが。
 学生諸君に限らない。道徳の問題にしても現在に到る対立は既に意味を喪失していることは確かなようだ。現場の若い教師たちにとっても、それは「あるもの」として「ある」のであってそれ以上でも以下でもない。だからそこに「ある」特別な教科道徳をよりよいものにするという以外の闘いはないのだろう。
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2016年11月10日

本音の時代

 トランプが大統領選に勝利した。選挙の経過を見るならば、終始僅差でリードしてきたクリントンが最後の最後にひっくり返された感じだ。野球で言えば6対7Xで9回の裏逆転サヨナラというところか。
 その底流にはアメリカ国民の本音があるように思える。
 人間というのはエゴイスティックな生き物である。だからそれぞれが幸福になれるように他者を慮り、ルールや申し合わせや倫理を調整してきた。腹の中では「この××が!」と罵倒していても、口からはきれいごとを語る。そうやってわれわれはこの社会を暮らしやすいものにしてきた。結果的にそのほうがみんなが幸福になれるからだ。そして馴れてくれば、(表現が悪質なので言い換えると)それらが無意識に定着するようになれば、差別意識も薄らいでくる。それが民主主義の教育であり、人権教育であり、人間重視の教育でもあろう。実際、アメリカでも白人と非白人の間の恋愛も婚姻も珍しく無くなっていると思うし、そのことをとやかくも言わなくなってきている。日本でもそうだろう。国際結婚も珍しく無いし、被差別部落でも部落外の人との結婚が殆どだという。
 しかし、心の奥底でふつうになっていないものはふつふつと発行してきたのではないか。ここで言う心は個人の心ではなく心性をさす。その心性は時に個々人の中にあらわれてくる。大統領選に関して言えば中間層の白人たちの心であり、日本ならヘイトスピーチを叫ぶ人たちを例に挙げることができる。
 結婚に関しても、あるwebサイトによれば日本では2006年をピークに国際結婚は減少しているらしい(http://www.madameriri.com/)。つまりはふつふつと心の奥底で滾っていた本音が、それはマナーとして良識として、ルールとして、倫理として口に出してはいけなかったものが飛び出してきたということであろう。その時、民主主義教育の、人権教育の、人間重視の教育が口裏を合わせてきた申し合わせは何の歯止めにもならなかった。
 なぜか。教育がふつふつと滾る差別意識を抑え込んできたからではないだろうか。いけない言葉やいけない態度、いけない考えを封じ込めてきたから、それらは息の根を絶たれることなく力を蓄えてきたのであろう。実際、あり得なかった差別的言辞をマイクでがなりたてても止めることのできない日本社会がある。
 人間の欲望がどのようなものであるか、精神分析家なら想像はつくのだろうが、自分自身に関していえば恐ろしくて見たくはない。見たくはないから再び心の奥底に押し込めて封印する。フロイドの理屈はそうだったな。そうしてわれわれは健全な良識人を自称しているに過ぎない。その政治的思想によって右であったり、左であったりしても、「人として」という部分ではある種の倫理観の中で「人として」の生き方を全うしている。しかし、倫理の箍を外してみたときにその箍は予想以上に外しやすく、また予想以上に支持を得られることがこのところの社会をあらわしているのではないか。
 ファシズムというものが世界を席巻したときはやはり同様の空気があったと言える。日本では明治維新後、天皇制国家を構築する努力がすすめられた。天皇制の是非ではなく、その時代に於いては的確な選択肢の一つであったと言っていいだろう。しかし、この国が破滅的な戦争に陥って行ったときに、倫理の箍を外した人たちが指導者の中にも、国民の中にもいた。そして、彼らを放置した国民がいたことが大きな歴史的過失であったと言えよう。天皇主義者にはあるまじき国粋主義、いや国粋主義の仮面をかぶった不道徳な非倫理的な人間がいたということだ。彼らは時に天皇の言葉に背いてまでこの国を破滅に導こうとした。三光作戦とか、一億玉砕などというのは倫理の箍が外れなければ思いつかない発想であろう。
 そのような空気が再び流れるような時代が来ているような気がしてならない。
posted by 新谷恭明 at 10:15| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする