2015年12月10日

八大教育主張の思想史その2

 ゼミのサイドテキストとして橋本美保・田中智志編著『大正新教育の思想―生命の躍動』東信堂を読んでいることはすでに書いた(10月20日付「大正デモクラシーと新教育」及び10月27日付「八大教育主張の思想史」)ので、未読の方はこちらも参照されたい。
 本書の千葉命吉に関する検討は「第10章 千葉命吉の教育思想―「生の哲学」の系譜」である。執筆者は木下慎氏である。ここでの木下氏の立ち位置は不可解である。はじめに先行研究を検討するとして、 まず堀松武一をあげ、「千葉の思想背景としてベルクソンと日本神道の影響を指摘」したとしている。次いで、ベルクソンと日本神道の影響について検証した菊池堅を挙げている。木下によれば堀松は「人物研究の観点から千葉の思想と実践ノ変遷をたどっているため」ベルクソンと日本神道の関係については「十分な考察」はしていないとし、菊池については「ベルクソンよりも日本神道に引きつけて千葉の思想を解釈」しているので、「(木下の)立場とは対照的」だと論争を回避している。
 本書は『大正新教育の思想』である。本書が「『大正新教育』を国際新教育運動の一環として捉え、その教育学的意義を思想史的な捉え直しによって明らかにすることを試みたい」(5頁)とする限り、堀松や菊池を遠ざけて議論するわけにはいくまい。また、「八大教育主張」をとりあげるについては「論者八人の主張の本質を把握し、彼らの思想に通底している理念を明らかにすることで、大正新教育運動の思想史的意義を考察したい」(165頁)としているのであるから、八大教育主張から検討を始めなくてはならないと思うのだが、木下の立場はどうやらそうではないらしい。
 木下は「千葉に対する日本神道その他の影響を軽視するものではないが」と前置きした上で、「千葉の生命思想をベルクソンとニーチェら『生の哲学』の系譜に接続する。それにより千葉の生命思想のポテンシャルを最大限に評価できると考える」(300頁)と千葉を八大教育主張の論者という場所から引き剥がすことから始めようというのだ。それは「日本神道その他の影響を軽視」するものではないだろうか。さらに木下は「『生の哲学』を別の仕方で継承したドゥルーズの議論に注目したい」(301頁)と言うのだ。ドゥルーズは大正14年の生まれであり、八大教育主張講演会の時はまだこの世に生を受けていない。八大教育主張の思想史を語るにはあまりにも非歴史的な方法を採ろうというものではないか、と驚いた次第である。
 ここで気づいたことであるが、この章はもとい、「千葉命吉の初期教育思想―「生の哲学」の影響に注目して」という『教育哲学研究』110号(2014)に掲載された論文を加筆修正したものだという。すでに発表した論文を本の中に入れることはままあることである。殊に論文をまとめて単著にするときにはおおむねそのようにするものだ。しかし、別の趣旨で編纂されるものの一章を構成する部分として転載するというのはいささかお門違いなのではないだろうか。『教育哲学研究』に掲載されるというのは教育哲学の論文として審査され、その研究目的もそれに見合ったものであるはずで、本書の趣旨とはもとより風向きがちがうものではないだろうか。当然、前述のような大正新教育の思想史とは次元の異なる議論になってしまうので、堀松や菊池と接点は持ちようがないのであろう。これは木下氏の責任ではなく、そうした木下氏の論文を無理に本書の一郭に組み入れようとした編集の問題であると思う。
 結果的にこの章は千葉命吉自身が語ろうとした「一切衝動皆教育論」ではなく、千葉を遠く離れた議論になっていかざるを得ない。大正10年の八大教育主張を理解しようという者にとって、ドゥルーズは扱いに困るのである。
posted by 新谷恭明 at 17:39| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする

2015年12月09日

千葉命吉は危険な思想家であったか

 12月7日(月)の演習では「八大教育主張」の「千葉命吉の一切衝動皆満足論(いっさいしょうどうかいまんぞくろん)」を扱ったのだが、千葉命吉というのはかなり特異な思考回路を持った人物であったらしい。レポーターの川上具美西南学院大学准教授の報告によると(宮崎俊明1999に基づく)、大正10年にその「お染久松論」が岡田良平文相に攻撃されると自説を枉げず、広島師範学校を退職した。そして私費で渡米し、コロンビア大学にデューイを訪ね、らにドイツに渡り、ベルリン大学のシュプランガーを訪ね、三年間ベルリン大学で学んでその精華ヲドイツ語で出版までしたという。しかし、シュプランガーからはその精神科学的見地と千葉の考えとは「合致いたしません」、「自らやる外に仕方ありません」と一蹴され、さらにナトルプに手紙で意見を求めたところ、「要するに、あなたはわたしの体系ないし言語を理解していないか、あるいはわたしがあなたのそれを理解していないか、さらには両方がそうなのです」と突き放されている。にもかかわらず千葉はシュプランガーやナトルプを千葉なりの引用をしたまま著書を出版したという。
 こうした評価を参照する限り、千葉は他者を理解するというより、自分に引きつけて自分にとって合理的な解釈のままに取り込んでいくという、いささか自分勝手な思考回路を持っていたように思える。たとえば「仏教、儒教、みなカントに似て居る様です。儒教の主張にはカントによく似たのがあります。カントの意志の格律と自然の法則との対照は、これを講師の所欲と矩との対照に似てゐむるなどその一つです」とカントと孔子を同じ考えのように見てしまう。挙げ句の果てに「朱子は『人心これ危く道心これ微なり』と序に書いてゐます。人心と道心とを立てると云ふことは積極衝動、消極衝動に当つて居ると思ひます。『危い人心』と云ふのはラツセルの云つた如く取りたい争ふと云ふ慾即ち積極的衝動であります」(『八大教育主張』202頁)と何もかもが彼の理論を支えるものとして同じことを言っていることになってしまう。自分の理屈に都合のいい言葉を集めてきては自説の補強にしていくというのが千葉のやり方なのである。
 であるからその論法はやや強引であり、時に誤解を招くばかりではなく、自身の論理が矛盾していてもほとんど気にする気配もないのである。当然、千葉は「やりたいといふことをやらせると教育は効果が大だと云ふことは、動的教育なり、創造教育なり、自動主義発動主義とか色々な名前が違ひましても何れも認むる共通点であります」(『八大教育主張』168頁)と自ら当時の新教育の基本的な考えは同じだと言う。これもまた千葉が他の論客の考えを自分に引きつけて解釈しているのだが、その「好きなこと」に執着することを千葉は己の特徴と位置づける。但し、その千葉の論理の中には手塚岸衛の言う「真善美」というような価値意識は見えてこない。それを「衝動」に純化させていくのである。
 「この葛藤場裡に於て、儒仏伝統の義理(消極的衝動-新谷注)のみ伸して人情(積極的衝動-新谷注)を軽んじてよい、と云ふ考へ方に反対する新しい傾向が生じてきて、人情も捨てがたい、と云ふやうになりました。それは元禄時代の浄瑠璃思想であつて、国民思想は浄瑠璃から没却することはできません」(同203頁)と近松に至るのである。これが一切衝動皆満足の原点であり、「貴族院一部の問題となり、惹いて県当局の圧迫となりました」(同204頁)と権力側から批判された部分であることを聴衆の前に示し、理解を得ようと弁明を行うのである。
 千葉命吉は「義理を捨てて人情のみにひつ張られて死んだ」久松と「義理のために人情を捨てて死に赴いた」正行を対比させる。正行は「君に奉仕すると云ふ義理のために只管猛進したのがどうも偉い」と世間では賞賛されているようなのだが、千葉によれば、正行は「弁の内侍を捨てたのではなかつた」「結婚を捨てた」のにすぎないとし、「現世に於ける仮の契を捨てただけで、人情をも解し義理をも解したと見られる」という「真人間と解し生き生きした煩悶の人と見たい」と位置づける。そして久松についてである。久松もまた「義理ある許嫁のお光と結婚しようか、それとも人情已むを得ずとして捨てがたいお染と結婚しようか、と捨て難い諸衝動の活躍に制しきれずに、葛藤に血の涙をしぼるのです。そして煩悶の末、「遂に彼はこの悔恨の情にせまられて惜しき青春の一命を以て今までとつた一切の手段と共に罪悪を謝せんとして深淵に果て立つた」という。「悔恨の情に迫られて過去の一切の手段を放棄した未練なき武士的気魄のあるところが即ち人々の賞賛に値する所以である」とし、「その死たるや善」と言い切るのである。
 千葉命吉の一切衝動皆満足論は神道に根を置いているとは言われる。これはきちんと研究しないで言う暴論だが、「がんばること」に重きを置く日本の精神主義に通ずるところがある。その意味では至極日本的であり、かつ危険な考えだったのかもしれない。尤も岡田良平が批難したのはそういうことではなかったのだろうが。




宮崎俊明「1920年代日本の新教育運動にみるナショナリズムとインターナショナリズム」『鹿児島大学教育学部研究紀要』第50巻
 
posted by 新谷恭明 at 18:03| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする