2015年11月30日

梅根悟の「新教育」論

 最後に、私は日本の戦争前の新教育がそのカリキュラム構造の点でどの辺まで進んでいたか、ということを示す一つの礼をお話してこの昔話を終わろうと思います。それは前にもちよつとお話した東京九段の富士見小学校のカリキュラムであります。
〈略〉
 この表をみても分るように、ところどころ皇国的という言葉があつて、この学校の教育も時代の動きとともに国家主義的色彩を帯びたものであつたようでありますが、カリキュラム構造としてはまことにはつきりしています。生活単位というのはすなわち生活単元であります。そしてその一番下にあげてある七つの項目はすなわち生活家庭のスコープを示したものであります。そのスコープの立て方はもちろん今日の進んだカリキュラムのそれとはちがいますが、一応はうなずけます。
 とにかく生活経験課程(生活単元課程)と教材単元課程とをはつきり全カリキュラムの二大領域として立て、これを合せて学校生活のカリキュラムとしたところにこのプランの特色があり、これは大正以来の新学校が多くは教科を自学化し、個別化するだけに終つたり、生活的な活動を重んじたところでも、これをカリキュラムとして組織化し理論づけ、全カリキュラム構造の中にはつきり位置づけることをしなかつたのに比べると、一大進歩であります。そしてこれから、私が先にお話したコア・カリキュラム構造への前進は、もうあと一歩といつていいわけであります。

 以上のお話でわれわれの今日の新教育運動というものが、決して終戦後のにわか仕込みの新教育でないこと、泡沫的流行でないことが分つていただければ幸であります。
(『増補改訂 新教育への道』425-426頁)

※梅根は教育の目的が「皇国的」かどうかは全く問題にしていない。「この学校の教育も時代の動きとともに国家主義的色彩を帯びたものであつたよう」というにとどめており、何を教えるかは新教育にとってはどうでもいい問題であった、というのが梅根の見方である。梅根にとって新教育は方法なのであった。
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梅根悟の「新教育」論

 梅根悟は戦後、昭和22年に『新教育への道』を著し、コア・カリキュラム運動を起こす。この本は昭和26年に『改訂増補 新教育への道』として書き改めている。「この本を書き改めてふたたび世に送るにあたつて」にはその事情と改変箇所が明記されている。そして「余話」として「日本の新教育運動」というのを巻末に書き加えている。以下、「日本の新教育運動」の文章を引用するが、これは梅根が戦後の新学制に合わせて、いったん『新教育への道』を書きはしたもののそのときは戦前の新教育運動について深くは考えずに出版したものと邪推することができる。なぜならばこの本はほぼ外国の教育のことで埋められていて日本の学校の話は書かれていないからである。四年間の時間を得て、梅根は彼のいう新教育と戦前の日本の新教育運動とを結びつけてみなくてはならなくなったものであろう。そこに大正新教育と戦後新教育との微妙な関係性が見て取れるのではないだろうか。
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 大正時代に入ると、国内における自由主義思想の高揚と相まつて、教育界にも自由教育の思想が高まり、自由主義、個性主義を強調する教育運動がほうはいとして起つて参りました。大正五年には沢柳政太郎を校長として成城小学校が創立される。大正八年になると奈良女高師の主事にかつた木下竹次が有名な「学習法」を始める。同じ年から手塚岸衛が千葉師範附属で「自由教育」と銘打つて新しい教育を始める。その他東京の横川小学校、愛媛の大町小学校、長野師範の附属小学校、福井県三国の三国尋常高等小学校、岡山県倉敷小学校など地方にも多くのパイオニアが出現し始めます。この動向に油を注いだのが大正十年の有名な「八大教育主張」で、雑誌「教育学術界」の発行者である尼子止の主催した夏期講習で八人の教育者にそれぞれれセンセーショナルな題で講演をやらせ、その速記を「八大教育主張」と題して刊行し、日本の教育界に一大旋風をまき起したというわけであります。八大教育主張というのは日串長市の自学主義、河野清丸の自動教育、及川平治の動的教育、手塚岸衛の自由教育、千葉命吉の一切衝動皆満足論、小原国芳の全人教育、稲毛金七の創造教育、片上伸の文芸教育の八人でありますが、このうち初めの六人は皆実際に学校経営に当つている当代の進歩的な教育指導者揃い、ただこれに奈良の木下と帝国の西山を加えればまさに当代の八大新教育であつたわけであります。(樋口は東京高師附小五部の経営に当つており、河野は日本女子大附属豊明小学校主事、手塚は千葉師範附属主事、千葉は広島師範主事、小原は成城小学校主事と主事揃いです。)
 ここに並んだ人たちの一人一人の主張と実践についてもお話したいのですが、大へん長くなりますから止します。ただ通じてみるとき、これらの人々のやつたことはやはり教科の学習をなるべく自由に、経験的に、個別的にやらせようとすることが主であり、それに自治会的な活動や自由研究、クラブ活動的な活動を加味した程度のものでありました。まだまだ本格的な生活学校ではありませんでした。(『改訂増補 新教育への道』415-416頁)
〈中略〉

 そして昭和十三年には日本の学校教育を全面的に再検討するために設立された教育審議会の答申が発表されましたが、これは例の国民学校案で、根本方針は国家主義教育の徹底を期したものでありましたけれども、一方では低学年(一、二年)の合科教授を公認するという方針を示し、それはやがて国民学校令によつて制度化されました。これが刺激となつて昭和十三、十四年以後合科教授運動がとみに抬頭し、全国の多くの附属小学校を初めとして之を実施する学校が多く現れ、学者の研究や著作もまた盛になりました。こうしてそれは太平洋戦争勃発の時まで、否戦争がはげしくなつて教育どころではなくなる頃まで、少くとも一部の学校で続けられていたのであります。(同422-423頁)

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2015年11月24日

樋口長市は新教育の裏切り者かⅡ

 和崎氏と志村氏の論文を見つけ出した。それと森田美比『菊池謙二郎』(耕人社 1976)。そんなものを並べながら、川井訓導事件及び自由教育の弾圧について考えてみる。
 和崎光太郎「大正自由教育と『赤化思想』」(『信濃』59 2007)によれば、中野光の諸論攷、『長野県政史』を引いて「従来の研究では、県当局による自由教育弾圧の一環として説明されるか、もしくは県当局と信濃教育会との教育界人事権の争奪戦の一環として説明されるにとどまっていた」と言う。そして和崎は赤化青年の勢力拡大に対する県当局の危機感が背景にあったと言う。
 まず、和崎論文では小松訓導冤罪事件をとりあげ、この事件で問題となったのは「気分教育」と「赤化青年」であったとしている。「気分教育」について、和崎は「白樺派教員が中心となって実践していた自由教育を非難・弾圧する側が、その自由教育を指して使用していた言葉である。ゆえに、実態として「気分教育」という教育実践が存在したわけではない。しかし一方では、県下教員の中には、「気分教育」と称して怠惰な教育を行っている者もいた」という。しかし、そうした教育は手塚岸衛の主唱した「自由教育」とは全く異なったものであることは手塚の著作を見れば一目瞭然であろう。小松の懲戒免職処分の理由について、第一に「誤られたる自由教育方針の下に教課科程を自己の都合にて随意に変更し或る学科の如き全然教授を怠った」ことを挙げている。ここに「自由教育」の文字は記されているが、あくまで「誤られたる自由教育」なのである。第二、第三の理由は「成績考査を行はない」「平素報効が不確実」というように、「怠惰な教育」が理由となっていたのである。
 次いで和崎は飯田小学校事件に言及する。ここで樋口長市が登場する。樋口は長野県臨時視学委員として北信を長田新、南信を樋口長市に担当させた。和崎が『信毎』の記事からこの視察は「県下教育界に於ける綱紀退廃の対策」であり、「特に問題の頻出する下伊那郡教育界に対しては徹底的視察を行ふ」としたもので、当初から〈弾圧〉は想定されていたと考えられる。果たして、標的とされた飯田小学校では樋口による教育内容・教授方法に対する過激な批判が行われたのである(飯田小学校事件)。和崎は、県当局が〈「気分教育」=「赤化思想」の温床〉という発想で一連の白樺派教員の弾圧をおこなってきたものであり、飯田小学校事件も「当局によって意図的に引き起こされた」と見ている。川井訓導事件はこの2日後に起きたものであり、一連の弾圧の流れに位置づくものとこ見ていい。川井訓導が樋口によって非難されたのは修身科の授業に於いて教科書を使用しなかったからである。それは言いがかりであったのかもしれない。理由が何であれ、樋口は松本女子師範附属小学校の授業を酷評しなければならなかったのであろう。和崎は『信濃教育』の記事を引用して、「視察後の批評会では、飯田小学校の場合と同様に各授業が一方的に批判された」と言う。その中で川井訓導は最も不幸な人物となったということなのである。
 こうした「当局の強圧的姿勢を批判する声は、新聞紙上などで強まる一方であった」(和崎)のであるから、これは県当局の赤化青年掃討のやり方に対する批判であったのか、「赤化青年」と「気分教育」「白樺派教員」などがいっしょくたにされ、その煽りを信濃教育会が喰らったとも言える。いずれにせよ、樋口を含む「八大教育主張」に象徴される大正新教育が弾圧されたということとは異なった力学があったと言うことができる。
 また、この時期は果たして教育の「国家主義的」再編の時期なのであろうか。和崎は、中野光が『大正自由教育の研究』(1968)に於いて県知事の「長野県の教育を国家主義的に再編しようとの意図」をもっていたと推論していた事について、「赤化思想」に対する当局の危機感が川合訓導事件を引き起こし、それが教育の国家主義的再編のスタートラインとなったとまとめているが、日本の近代教育史において、国家主義的ではない再編が行われた時期があったであろうか。明治新政府が樹立してからの近代教育の展開は休むことなく国家主義的に進められてきたのではなかったか。
 第一次世界大戦、ロシア革命という国際状況は国家主義を強固にしていく過程でもあったわけで、臨時教育会議では兵式体操振作の建議が提出され、文部省内には社会教育課がつくられていく、そうした国家主義的な動きは一貫して進んでいたと言えよう。一方で、社会主義的な思想や労働運動、水平運動などの社会運動も勃興してきた。というような状況の中で国家に敵対する動きというのは何であり、国家に与する動きとは何であったか。それを見極めていく必要があるし、その時代に国家が弾圧しなければならなかったものに大正新教育は含まれていたのだろうか。
 少なくとも川合訓導事件は大正新教育のどの部分に弾圧を加えたのだろうか。
posted by 新谷恭明 at 11:16| Comment(1) | 研究ノート | 更新情報をチェックする