2015年10月27日

八大教育主張の思想史

 後期のゼミは橋本美保・田中智志編著『大正新教育の思想』(東信堂)をサブテキストに『八大教育主張』を読み解くというもので、昨日は橋本美保・田中智志「第5章 八大教育主張の教育理念ー愛に連なる生命」を読んで、八大教育主張のアウトラインを理解しようとした。
 まずは八大教育主張なるイベントが如何に行われたかについておおよその説明があった。ま、これは中野光『学校改革の史的原像』に書いてあることとあまり変わりはない程度の一般的な説明である。しかし、注にも参考文献にも中野の著作はない。中野の著作に目を通していて、八大教育主張の概略を頭に入れていた者にとってそれはちょいと不自然な感覚であった。中野の著作には目を通さなかったのだろうか。それとも大正新教育を見直すには中野の存在は無用だとでも言うのだろうか。
 本章は途中から八大教育主張の「思想的基礎の析出」という作業に入る。邪推だがこのあたりで執筆者は橋本から田中にバトンタッチされたのだろう。まずは八大教育主張の論者たちの所論の要旨のようなものが続く。要旨ではない。「思想的基礎の析出」作業なのだろう。それぞれの論者の読み込みはこれ以降の章で行っていくのであるから、余計な作業にも思えないわけではない。
 しかし、この8人の論者についての「思想的基礎の析出」はそれぞれの「論」の趣旨を離れ、著者の想像の世界に入っている感をぬぐえない。「ベルクソンへの言及」というものを各論者の理論の中に見出し、ニーチェまでが出てくる。「ニーチェについては奇異に感じられるだろう」(193頁)と著者が言うように奇異に感じざるを得ない。おそらく論者の誰もがニーチェの引用はしていないはずだが、この著者は勝手にそれを見出して(ニーチェだという根拠は全くわからない)批評しているのだから。
 また、なぜか八大教育主張の論者は手塚と小原を除けばキリスト教的な愛を語ったというのだが、それも各論者の主張に記されていたようには思えない。著者がそのように読み取れるというに過ぎないのだが、そうした「キリスト教的な愛を浮き彫りにするために」なんと賀川豊彦の生命思想について議論し始めるのだ。賀川の大正期に於ける思想的な存在感はわからないわけではないが、八大教育主張の説明にはちょっと無理のある人物ではなかろうか。しかも、結論が「八大教育主張の論者たちは、賀川ほど明確にキリスト教的な神を前提に語っていない」(195頁)というのだから、もとい見当違いの議論をしたと言っているに等しい。しかも、「八大教育主張の生命論は、多義的な解釈にさらされ、説明不足を指摘されることになったのではないだろうか」(196頁)と項を結んでいるが、各論者にしてみればそんな説明をしようとした覚えはないのではないか。
 問題は八大教育主張の8人の論者はそれぞれの講演内容を相談し合って語ったわけではない。それぞれ持論を展開したのであるから、もといそこに共通の「思想的基礎」を見出そうとすること自体が無理のある作業なのだと思う。しかも、手塚と小原はその共通の思想的基礎から外れているし、この二人は八大教育主張の中ではかなり重要な人物でもあると思われるのだが、それはどうしたものだろう。
 何度読んでもこの章の後半は著者の独りよがりの思想的妄想にしか思えない。八大教育主張の場には関与していない賀川で八大教育主張を語ろうとしたことに無理があるように、「大正新教育の理念」として「キリスト教的な愛」を持ってくるのはなじめないし、「アガペーとしての愛の思想史」に位置づけるというのもその根拠が見えない。
 まあ、これから八大教育主張のひとつひとつを学生諸君に読み込んでもらうつもりだが、そこにどれだけ、アガペーとしての愛の思想史が読み取れるか、楽しみである。
 
posted by 新谷恭明 at 02:11| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする

2015年10月20日

大正デモクラシーと新教育

 後期のゼミでは大正新教育の見直しをやろうとしている。先般出版された橋本美保・田中智志編著『大正新教育の思想』を参照しつつ、八大教育主張を読み解き、大正新教育の思想構造を解明しようというものだ。まずは橋本氏による「序章」を読み、問題意識の醸成をはかることにした。
 ゼミ参加者から出た違和感について議論するところとなった。まずは以下のくだりである。
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 教育政策においては、天皇制を中心とした国家主義体制を確立するための学校教育の整備が図られ、明治後期までにはほぼその基礎を完成させていた。この国家主義的な学校教育を政策的に支えたものは、教育勅語の発布と教科書の国定化である。大正期の学校教育は、この二つの柱による「臣民教育」の徹底を主要な課題として進められていた。しかし、こうした国家主義的な教育政策・行政上の課題は、この時代に高揚し始めた民衆の市民的要求とは、本来符合するものではなかった。そのため、国家主義的な学校教育と、デモクラシー・市民的権利との妥協点が、切実に求められるようになった。教育は、この時代において、いわば一種の思想的格闘の場、思想的妥協の場となっていった。そうした時代背景のもと、教育の世界に新しい考え方や実践が登場した。この時期に新たに登場し普及した教育は、一般に「大正新教育」とか「大正自由教育」と呼ばれている。(12頁)
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 問題は「この時代に高揚し始めた民衆の市民的要求」、「デモクラシー・市民的権利」と言っているものは具体的に何を指すのか、ということである。それについては、この節の文頭に次のように記されている。
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 第一次世界大戦後の日本では、経済発展と並行して自由主義思想が拡がり、市民の権利への関心が高まっていった。いわゆる「大正デモクラシー」の拡がりである。たとえば、一九一八(大正七)年の政党内閣の成立や、一九一九年頃からの普通選挙論の台頭は、そうしたデモクラシーへの志向、市民の権利意識の拡がりを象徴する出来事であったし、吉野作造のような、民本主義者たちによるデモクラシーの高唱も盛んになった。
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 政党内閣の成立、普選運動、民本主義が具体的な「大正デモクラシー」なのだと言う。しかし、政党内閣の成立がデモクラシーであるという認識は何時形成されたのか。ということで文部省著作の『國史概説』(昭和18年)の記述を見てみよう。政党内閣については「憲法発布以来二十余年を経て、国民の政治的訓練も漸く進み、大正時代に至つて政党の勢力は愈々大をなした」(506頁)とした上で、「かくて大正時代に於いて政党は藩閥官僚政治打破、民意暢達の旗幟のもとに次第に勢力を増大し、遂に所謂政党内閣の樹立を見るに至つた。しかし政党相互の党争は激烈となり、これに伴なつて種々の弊害を醸した」(509頁)と記述している。また、普通選挙についても、「大正時代に入り、政党の発達に伴なつて国民の政治的自覚の向上は、益々この種の要望を強くし、・・・かくて十四年、第五十議会(十三年―十四年)に於いて普通選挙法が成立し、・・・ この結果、有権者は一躍四倍の増加を見、広く国民をして政治に参与し、国家の発展に寄与することを得しめるに至つた」(509頁)といずれも当時としては歴史的な発展とみなしていた。言わば国際的には後進国から先進国に至る道筋として位置づけていたのである。
 また、吉野作造によって展開された民本主義はデモクラシーの訳語ではあるが、「国民主権か否かは問わず、政策決定が一般民衆の意向にもとづき、その目的が民衆の利福にあることを意味した」(『日本史広辞典
』山川出版社 1997)のであり、国民主権を避け、天皇制国家を前提とした独自の「デモクラシー」解釈であったと言える。
 そのように見ると、敗戦までは「大正デモクラシー」というものは認識されていなかったのか、もしくは国家権力によってなかったものとして黙殺されていたのだろう。いずれにせよ、「大正デモクラシー」という言葉自体は戦後に登場したもののようであることは、その評価の如何にかかわらずまちがいないようである。おそらく信夫清三郎『大正デモクラシー史』(日本評論社 1954)あたりが初出ではなかろうか。
 有馬学氏によれば、「結局、「大正デモクラシー」と言われるものは、第二次世界大戦後に戦後的な価値から評価できる伝統が日本にほんとうに何もなかったのか、と一所懸命に探して見つけられたものを名づけたにすぎませんから」(加藤典洋と有馬学の対談「日露戦後の「ブラック・ボックス」『日本の近代 第4巻付録7』中央公論新社 1999年5月)と説明し、本文中では「当時の日本人による、世界の中の日本という意識は、第二次世界大戦(一九三九~四五)後の日本の常識から見れば過剰と言っていいほどである。そうした人々によるデモクラシー論は、何処かでナショナルなものの語り直しという契機を含んでいる。」(有馬学『日本の近代4 「国際化」の中の帝国日本』中央公論新社 11頁)とナショナリズムと重なり合うものであったようだ。
 有馬氏はさらに続けて忠告してくれている。「ここでのもう一つの問題は、概念の汚染である。すべての歴史概念にあてはまるが、とりわけ「デモクラシー」という概念は後世の価値観で汚染されている度合いが大きい。古人骨からDNAを抽出しようとする研究者は、自分の汗で、汚染された資料のDNAを古代人のDNAと見誤ってはならない。「デモクラシー」のような価値的な概念を歴史的現実に適用しようとするときには、とくに注意する必要がある」と。
 この忠告は教育史研究者においては傾聴に値するであろう。なぜならば、教育は極めて価値的な要素を含み、時空を越えて価値観を共有することがしばしばある。例を挙げて特定の研究を批判するのはこの場の目的ではないので、やめておくが、現代の教育実践や理念と大正新教育との共通性を探そうとするような研究は検索すればいくらでも出て来るであろう。
 話を戻すと、国家主義的な学校教育と戦後の創造物である「大正デモクラシー」とを対立的に措定すること自体が無理のある設定なのではないだろうか。いや、もとよりデモクラシーとナショナリズムは対立するものなのだろうか。デモクラシーが国家の体制である限り、それはいつでもナショナリズムと重なっていておかしくはない。一方、絶対王制や天皇制がデモクラシーと対立することはあるだろう。しかし、当時の日本に於いて天皇制を否定する勢力はどれだけあったか。その意味で当時の国家体制と敵対していたかのように描かれる「大正デモクラシー」なるものは戦後の価値観に汚染された概念なのだと考えた方がいい。
 とすると、大正新教育は自由・平等、反国家主義、国民主権、社会主義などに位置づけるべきではなく、あくまで国家主義の文脈の中で教授法として画一主義、注入主義の弊を糺すものとして登場したものと考えたい。
posted by 新谷恭明 at 21:32| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする

2015年10月18日

J.S.ミル『大学教育について』

なるほど。これは昔の話だと言いきるのもあり。ま、ミッションの再定義という裏技を使って近代大学自体を否定したのだから、なんともはや。

 本書はミルがセント・アンドルーズ大学名誉学長就任講演だという。その冒頭でミルは「少なくとも大学がこうあってはならないということについては、ほとんどの人々の間で意見の一致がみられます。」と書き出している。歴史屋としてこの一文を解釈すれば、当時から異論はあったということを意味している。その異論はミルが否定しようとしていることであり、ミルの主張と反対の見解が当時からあったということを意味している。ともかく、この一文に続けてミルは言う。
 「大学は職業教育の場ではありません。大学は、生計を得るためのある特定の手段に人々を適応させるのに必要な知識を教えることを目的とはしていないのです。大学の目的は、熟練した法律家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養ある人間を育成することにあります。」と。
 このことは当時(1867年日本では大政奉還の頃)大学を職業教育の場と考える人間がいたということを意味している。そして、そういう傾向に対する危機感がミルにはあったということである。
posted by 新谷恭明 at 02:11| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする