2015年08月30日

学閥

 今日の日本教育学会でも日教組の研究発表があった。広田照幸さんの研究グループが熱心にやっている共同研究だ。私たち教育会研究(梶山科研)をしている者にとっても日本教育会と日教組の関係は大きなテーマなので関心は深い。で、教研が始まった頃の状況において、東大の3M(宗像誠也、宮原誠一、勝田守一)と称された東大教育学部の教授たちの関与は「必ずしも大きくなかったことが分かる」というくだりがあって、思わず質問をしてしまった。まあ、よく読めばわかることなので単なる確認に過ぎないのだが、上記に引用した箇所の前に「宮原誠一を除き」とあるのがミソで、どうやら宮原のリーダーシップで勝田などは後から引っ張り出されたという力学が明らかになったと見ていい。だから、関与が小さかったのではなく、関与は大きかったとみるべきなのだろうと思う。もちろん、宮原の存在の大きさを明らかにしたのは重要な発見であった。
 しかし、もっとおもしろかったのは、羽仁説子が愚痴っている文献の引用である。東大の教員たちの学閥への批判に対して勝田守一が「だってぼくたちは中学時代から同級生だった」と羽仁に言い訳した箇所だ。実際、勝田と宗像は東京高師附属中学の同級生だった。そしてこうした仲良しであることは歴史的にはけっこう大事なことなのだと思う。学閥は意識的に作ると言うよりこのように自然に生まれるものなのだと思う。
 「学閥は悪い」と言われればそれまでだが、勝田が思わず弁明したように、お友だちであるということは大きな意味を持つし、それが悪いとも思わない。そのお友だち意識が教研に影響を与えたということは隠すべきことでもないし、そうした意識を利用しながら、宮原はうまくやった、と評価したいと僕は思う。そしてそうした人間関係を巧みに分析解明した今回の研究に拍手、というところかな。今後の進展が期待される。
posted by 新谷恭明 at 18:26| Comment(0) | 研究雑感 | 更新情報をチェックする

2015年08月18日

いくらでも出てくる。

 また出てきた。昨日校則に関してのレポートを見ていたら突然デュルケームの引用が出典無しで出てきたので、怪しいと思って調べたら大学教員A氏の授業掲示板とそっくりであった。しかし、A氏の授業掲示板の日付は7月29日付であるから、レポートの提出はそれ以前だし、ただ、デュルケームが「○○・・・○○」と述べたとだけあるので、見逃した。
 で、本日の採点中にまた同じデュルケムの引用があり、出典として「必要な校則は何か」と文末に記されていたので検索してみるとT大学2008年度冬学期講義「情報化と教育」において院生が作成したHPとほぼ同じ文章であった。
 以下3つを比較してみる。朱字の部分がほぼ同様の文である。多少言葉をいじっているが、実によく似ている。A氏は膨大な講義資料を掲示板に載せているので、この文章がいつ書かれたものかはまだ確認できていない。だからどちらがどうの、という判断はできない。しかし、ネット上にほぼ同一の文章が掲載され、それをわが1年生の学生がパクっている。それが現実だ。

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 フランスの社会学者、デュルケームは、「子どもが規制を尊ぶことを学び、またかくせねばならぬがゆえに自制し、ワガママを捨てる習慣を身に着けるのは、学校規制の尊重を通じてである。それは義務がもつ厳しさについての最初の体験であって、真摯な生活はまずここから始まる。」 と語っている。つまり、校則は「まじめな生活を送る生徒を育成するため」に存在しているということだ。また、どんな生徒もやがて社会に出ていき、いろいろな集団の構成員となっていくが、そんな時にその集団でのルールに従うことができる素直な大人になるための訓練であるとも言える。要するに、校則は生徒の将来のことを思って作られたのだ。もちろん、そうだからとはいえ、どんなに厳しい校則でも許容されるべきだというわけではなく、生徒の人権を尊重し、生徒の自由を奪いすぎない校則であることが重要である
(Q大学1年生レポート)
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デュルケーム(訳・1964)は次のように言っています。
「子供が規則を尊ぶことを学び、またかくせねばならぬがゆえに自制し、我儘を捨てる習慣を身につけるのは、学校規則の尊重を通じてである。それは義務が持つ厳しさについての最初の体験であって、真摯な生活はまずここから始まる」
校則は生徒がまじめな生活を送るためにある。これが彼の考える校則の教育的意味です。またそれに関連して、生徒が校則を守ることは、社会に出てから様々な集団の中でルールを守れる大人になる訓練であるとも考えられます。
校則は、生徒の将来のためにあるのです。
では、生徒のためならどんなに厳しく自由を奪う規則でも良いのかというとそうではなく、生徒の人権を尊重し、生徒の自由を奪いすぎないようにするのが大切です。
このようにデュルケームの言う校則の教育的意味はとても基本的なものであり、すべての校則の前提になっていると言っていいでしょう。

しかし、このことを踏まえていても、これは本当に意味があるのかと問いたくなる校則があると思います。次では、非行と校則についての議論をもとに、校則の教育的意味をさらに深く考えてみます。
人の外見は内面を映し出していると言われますが、教育でも服装の乱れは心の乱れとして、校則によって服装を規定し非行を防ぐという考え方があります。例えば、茶髪を禁止して、生徒が非行に走るのを未然に防ごう、というようなことです。
しかし、このことについて苅谷(1998)は次のように言っています。
「中学生時代の外見(服装や髪型など)が、そのまま大人になったときの『良い』状態とつながるわけではないことは、大人自身、自分たちの経験から実はよく知っていることです。(中略)校則の中身が何であれ、守るか守らないかが、学校に対する態度を判断する基準になるのです。」
つまり、校則は非行を防ぐためにあるというより、むしろ生徒の「正しい態度(正しい心のもちよう)を育て」るためにあり、これこそが「よい大人になることにつながる」のです。
したがって、校則は非行に対して有効かどうかはあまり問題ではありません。
校則は生徒の従順な心を育むためにある。
つまりこれも校則の大切な教育的意味だと考えられます。

(T大学2008年度冬学期講義HP 執筆は大学院生)
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 校則について、フランスの社会学者であるデュルケームは「校則とは子どもが規則を尊ぶことを学び、またかくせねばならぬがゆえに自制し、我儘を捨てる習慣を身につけるのは、学校規則の尊重を通じてである。それは義務が持つ厳しさについての最初の体験であって、真摯な生活はまずここから始まる」と述べている。校則は生徒がまじめな生活を送るためにある。これがデュルケームの考える校則の教育的意味なのである。またそれに関連して、生徒が校則を守ることは、社会に出てから様々な集団の中でルールを守れる大人になる訓練であるとも考えられる。よって、校則はとは生徒の将来のためにあるのだと考えられる。しかし、生徒のためといってもどんなに厳しく自由を奪う規則でも良いのかというとそうではなく、生徒の人権を尊重し、生徒の自由を奪いすぎないようにすることが大切であると思う。このようにデュルケームの言う校則の教育的意味はとても基本的なものであり、すべての校則の前提になっているのではないだろうか。また、人の外見は内面を映し出していると言われ、教育でも服装の乱れは心の乱れとして、校則によって服装を規定し非行を防ぐという考え方が存在する。しかし、外見と非行が必ずしも一致するとは思えない。校則は非行を防ぐためにあるというより、むしろ生徒の「正しい態度を育てる」ためにあり、これこそが「よい大人になる」ことに繋がるのではないだろうか。従って、校則は生徒の従順な心を育むためにあるのだ。つまり、これも校則の大切な教育的意味であると考える。
                                  (A氏授業掲示板)
posted by 新谷恭明 at 14:10| Comment(0) | 研究雑感 | 更新情報をチェックする

2015年08月17日

やはりまだ・・・

 ある科目の成績をつけている。やはりあった。コピペだ。おそらくはもっとあるのだろうと思うが、そのチームのコピペ元を調べるのに時間を大きく喰ってしまったので、かなりのものを見逃している可能性がある。学校鞄の歴史を年表ふうに綴っている箇所で某鞄店のHPをほぼ丸写しにしていたものである。だいたい根拠無しに年表ふうのものを作ってきたときが怪しい。自分で作れるならばそれなりの努力の跡を示すだろうからだ。その中に「かかえ抱かばん鞄」という記述があったので不審に思った。元は「抱鞄」にルビでも振ってあったものをHPに貼り付けたときに起きた誤植だろう。しかし、本人は何の疑いもなくこの記事を自分のレポートに貼り付けていたのである。しかも、講義中に注意事項としてこのような例を「レポートの書き方について」というものにして配布し、説明も加えた。中には他のブログから誤植までコピペをしていた例も挙げてある。なのに何で同じまちがいをするのか。コピペ及びネットマナーについてはしっかり初等中等教育段階でも指導して欲しいところである。
posted by 新谷恭明 at 23:11| Comment(0) | 研究雑感 | 更新情報をチェックする