2014年10月28日

小中一貫教育もしくは中高一貫教育(その2)

 それはさておき、小中一貫教育について。
 もとい義務教育は4年間。それが就学率の上昇で6年に延長するまで30数年の歳月を要している。それまでは10歳くらいで働きに出るのも当然という時代ではあった。その義務教育が6年に延びたのは至極妥当なことだった。つまり義務教育が終わる12歳から15歳くらいまでの年齢はだいたい以前の一人前とか元服といった成人の儀礼を迎えてきた時期と重なる。義務教育終了後におとなの世界に飛び込むことがさほど無理ではない体制になったのである。しかし、もう少し義務教育機関を延長したいというのはずっと文部行政の目指すところであった。それはおとなへの準備期間をしっかり国家的に支援する必要があるからだ。昭和16年に国民学校が立ち上がったとき、義務教育も高等科までの8年間に延長することになっていたが、これは戦争のために延期となり、戦後の6・3制まで待たねばならなかった。
 こうした経緯から見れば、義務教育としての中学校の役割が中学生時代に子どもからおとなへの仕上げをするということだと理解できるだろう。小中一貫教育というのはこうした理念を前提に考えなければならない。中1ギャップの解消が問題なのではない。むしろギャップだの段差だのいうことは意識しなければならないのである。
 ところで、小中一貫制を実施しているところでは、1年生から9年生という呼称にしている。そして9年間を4・3・2に区分しているものが多い。1、2、3、4年を一括り、5、6、7年を一括り、そして8、9年を一括りにするというものだ。旧小学校高学年と中1をまとめて小~中への段差を減らすことが狙いのようだ。
 しかし、このくくり方には問題が多い。まず、学習指導要領という大本のカリキュラムがそうなってはいないのに特定の学校の括りだけがこうなっても何の意味もない。聞くところによれば、小中一貫制になっても制服は旧中1からだという。笑止。一貫制というのは学校文化を一貫したものにしていくのでなければ子どもにとって意味がない。ただ、中学の教員が小学校に出向いたり、職員室の机の並べ方が括りごとになったりという教員の側の問題ではない。校舎が別であればそれだけで一貫というのは無理なのである。そういうのは「連携」と言う。
posted by 新谷恭明 at 10:37| Comment(0) | 研究雑感 | 更新情報をチェックする

小中一貫もしくは中高一貫(その1)

 県教研集会で、「保護者・地域と連携した教育活動」という分科会に行った。行ったといっても共同研究者として貼り付いたということだ。
 レポートの多くは小中一貫教育に集中した感がある。ということで考えたことをいくつか書き残したい。
 まず、今回報告のあったものはみな、小規模校であり、統廃合ないしは複式化を回避するために小中の一体化を目指したものであった。県内で大規模校でやっているのは宗像市だけのようで、その報告はなかったので、ちょっと調べてみたいとは思うが、それは僕の仕事ではない。
 その宗像市では宗像高等学校が中高一貫の県立中学を来年から開校する。輝翔館中等教育学校、門司学園中学・高等学校、育徳館中学・高等学校に続いて宗像と嘉穂の両高等学校に中学校が併設されるという。現在6・3・3制の教育体系をもつこの国に小中一貫と中高一貫という二つの一貫教育が走っているわけだ。殊に宗像という小さな地域に二つの異なった教育理念が併存するというのは理念的には矛盾と言ってもいいのだろうか。
 まず、小学校入学が6歳であり、それ以前の保育園、幼稚園との連携がいろいろされるが、勘違いした例として「小学校に入ってくるときには名前くらい書けるようにしておくこと」を準備教育として幼稚園に期待する連携派とか、読み書きのなんぼかを早期教育として教えておくことでブランド化を図る幼稚園などがある。
 ところで、「7歳までは神のうち」というのは日本では昔から言われてきたことである。それは一つは乳幼児死亡率が高かったために神様から授かった子どもはまだ神様のうちにいて、いつ帰るかも知れないというふうに考えることで悲しみを回避したということ。それとその時期の子どもは何を言っているのかよくわからないおかしな存在で、人間の言葉が通じない存在だった。それが7歳(数え年、満年齢なら6歳)になる頃から病気もしなくなるし、人語も解するようになる。それでそんなふうに言ったわけだ。
 だから、それ以前に子どもたちに人間の知を教えるのはやめた方がいいわけで、それより人間として学ぶための基礎的な能力を身につけておいた方がいい。それは多くは遊びといった子どもの生活経験の中で培われるものなのだ。それらの蓄積の後で小学校に入り、自分の名前の文字を覚える。読みはふりがなを振っておけばいいのだ。漢字書かれた自分や友だちの存在を体感する。その喜びがたいせつだ。さらに言えば、名前をはじめとする固有名詞はすべて漢字のままでいい。しかし、小学校では学習指導要領で示されたものしか使わせないことが多いようだ。「しん谷やす明」とか書かれても理解する方が難しい。漢字を覚えろと言うことではない。漢字を覚える前の生活経験なのだ。漢字で書かれたものがその人の名前であり、人物と漢字とその読みとで子どもは自分と仲間を体験する。もちろん学力の底力もこういう体験に基づいている。
posted by 新谷恭明 at 09:36| Comment(0) | 研究雑感 | 更新情報をチェックする

2014年10月23日

レポートの書き方

そんなわけでレポートの書き方について第一弾。遠山くん、どうね。
posted by 新谷恭明 at 22:08| Comment(0) | 研究雑感 | 更新情報をチェックする