2014年01月15日

新教育は反権力か

 平凡社刊の海後宗臣監修『日本近代教育史事典』という古典的であるが、今なお信頼度の高い事典がある。1971年の刊行だ。その当時5,500円という価格であったから貧乏学生にはいささか高価であり、大学院生になった時に勤めはじめた恋人におねだりして買ってもらった。
 そんなことはどうでもいい。「教育方法」の〈大正・昭和初期〉の項に「この期の教育方法は普通「新教育」または「自由教育」の名でよばれる。それは、すでにのべたように子どもの価値意識の形成から知識内容のすみずみまでを権力によって画一的に統制されつつあった当時、教育方法の形式化、形骸化がび漫しつつあったのに対して、自由(個性的)で生物的な市民的要求が顕在して、これをきびしく批判する声が高まり、ついに公教育の中にこの声を一部とり入れざるを得なかった状況を反映したものである」と書かれている(執筆は大槻健)。
 執筆者の本意はともかく〈権力の統制に対する批判〉という位置づけを与えたかのような文言は何処かで新教育、自由教育を当時の反権力的教育であると錯覚させる風潮を教育史を学ぶ人たちに与えたであろうことは否定できない。そして、一時は時代の寵児であった手塚岸衛や千葉命吉が、これもまた〈不遇な晩年〉というレッテルを貼られて評価されることによって、その風潮は常識化してしまっているように思える。
 しかし、新教育、自由教育は果たして反権力的性格の教育だったのであろうか。新教育の論客の発言をしっかりと読み込み、そのあたりを確かめることは教育史の構成を見直す上で重要な問題である。誤解されているシェーマは明治の国家主義教育に対する反権力的教育としての新教育、自由教育の登場。それに対する権力の弾圧、軍国主義的国家主義的教育の台頭と戦争。戦後の反省と新教育=戦後民主主義教育、といった歴史観である。こうした教育史叙述のスタイルが現代の教育を見詰めるときにしばしば自由な改革の妨げになっていると考えるのである。
posted by 新谷恭明 at 00:17| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする

2014年01月06日

GPA

 GPAという厄介なものを今大学は使わなくてはならない。何かっていうと要は成績評価なんだけど、いろいろ計算の仕方があって、結果的にはA、B、C、D、Fに区分する。Aはめっちゃできる、Bはようできる。、Cはまずまず。で、だ。Dはまだまだ。だけどとりあえず単位は出すけど、このままだと卒業は無理。で、Fはfailure、つまり不合格ということだ。これが優、良、可、不可とちがうのはDが可ではないということだ。A、B、C、Dを4、3、2、1に換算して平均が2点に達しないと卒業できない、というのが重要なところなのらしい。
 ところが、今までの日本の大学の慣行ではA、B、C、D、Fは秀、優、良、可、不可に置き換えられ、全部可でも卒業できることになる。ましてAは90点以上、Bは80点以上、Cは70点以上、Dは60点以上という100点法との換算をしたりするから余程ややこしくなる。何しろ70点以上なんて取ったことのない人間には在籍は不可能ということになるからだ。
 しかし、現在の大学は古い慣行と新しいシステムが混在しているので厄介なことになり、不利益は学生に廻っていると思われる。Dが卒業要件に拘わる評価だとは考えずに可の英語読みだと理解して評価する教員が大半であり、その結果、日本の大学生のGPAはおおむね低いという外国からの評価となって留学などの際に不利益になりかねないということが言われている。
 さらに100点法との無理な換算があるし、100点法でなければ納得できない教員が多いので、これもGPAを下げる結果になる。
 以上は点をつける側の問題であったが、学生からすれば、少しでも高いポイントがもらえる科目に集まるといったいわゆる小賢しい点取り競争に拍車をかけることになる。その結果、学生は学びたい科目を学ぶということよりもより高いGPAの得られる科目を取る(学ぶではない)という行動に出るようになる。
 これを是正するためには厳格な評価基準が必要となってくる。つまり、何がどれだけできればBだとかいう基準だ。これをルーブリックと言うらしい。それなりにもっともな話なのだが、これが厳密になればなるほど講義の、いや大学教育の中身が計測できるものになってしまうことになる。どういうことかというと、科目ではなく教科になってしまうと言うのが妥当かもしれない。従来の、というより僕の信じてきた大学教育は無形の資質を学生に与えるものであった。ところがこれが有形の知識や能力を与えるということになる。つまり運転ができるとか、二次方程式が解けるとかいうことだ。それは初等中等教育のある部分までには必要かも知れない。高等教育でも或る部分では必要かも知れない(理系の数学や物理の基礎知識みたいなもの)。しかし、大学で学んだから向き合える答えのない問いに対する応えを育てられなくなってしまう恐れがある。それは現在タテマエで標榜しているアクティブラーナー云々の存否にかかわる問題なのだ。
 ということで「ああ、やだやだ」という難問を抱えて年を越した次第だ。
posted by 新谷恭明 at 02:20| Comment(0) | 管理・運営 | 更新情報をチェックする