2013年07月30日

振鈴;君が代と教育勅語

本年のはじめ頃、共産党が「民族独立」というという問題を取り上げて、彼ら一流の民族論を公けにした時、人々は、「マルキシズムと民族のとり合わせは如何にも変だ、いずれ何か悪らつな目的があつてのことであろう」とこれを一笑に附した。アジア諸地域の共産党が、いい合わせたように民族自決の問題をとり上げているのをもても、それと一脈通ずるもののあることを読み取つたのは、自由な日本人としては、特攻隊と共産党の連想からきた一種の直感であろう。
とにかく、そういうわけで、日本人は一様にこの民族論に「てんたん」としていた。だがようやく今日になつて何となく民族問題討議の時期はきたようである。だいいち最近のジャーナリズムが騒ぎはじめている。いろいろさぐりまわってみたが、結局、のつぴきならぬ壁につきあたつて、どうしてもこれから始めなければならぬ、という具合に、誰からともなく、止み難いいきおいで民族問題の討議がはじまつているようである。「世界」は、一月号の巻頭に、南原繁の「民族の危機と将来」をかかげているし、「中央公論」は同じく一月号に、清水幾太郎の「日本人」や笠信太郎の「食えない日本」などをかかげる外特集として「アジアのナショナリズム」を取り上げている。
その他の総合雑誌にも、だいたい一様にこの傾向が出ている。こういう風に、民族問題討議の傾向は、次第に日本人全体を覆い、やがては公刊の茶話をもにぎやかにすることである。日本人が日本人を考える必要が、いろいろな事情で急速に増大し、いよいよ行きつくところへ行きついたという感じである。従つて、われわれの教育界でも、急激にこの民族問題の意識が高まりつつあるのは別に不思議ではない。問題この民族論の行手である。ナチス・ドイツの好例もあり、東條さんの失敗もあることであるから、よもや、この民族論がそういう方向にむいてゆくとは思いたくない。しかし、その心配はなくもない。
「君が代」や「教育勅語」や「修身課」の問題に、そういう懸念はないであろうか。「君が代」を歌え、という文部大臣のお話に、感泣したという教員もあることであるから、この種の攘夷的民族論に警告する人々がいてもいいのではないか。再軍備と天皇制を夢みるけんのんな民族論が、ほうはいと起りそうな気配がする。「骨ぬき」も嫌だが、それよりも「自由」を踏み殺す「軍靴」の時代の方がこわい(I)

「気がかりな民族論  ナチス・東條の先例もある」『教育新聞』1951.1.1
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2013年07月27日

振鈴;道理から道徳へ―文相のつづる転落詩集―

 当初、天野文相を賞賛していた日教組であったが、修身科問題で一気に評価は落ちた。それがこのコラム。(I)とあるから、先の文章と同じ石井氏であろう。有島武郎がお気に入りのようだ。

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「道理」の感覚を口ぐせにしていた天野文相が、こんどは「道徳」について語りだした。つまり、教育勅語を「作り直し」て、新しい道徳綱領のようなものを作るべきだというのである。しかも、それを土台にして、学校では修身課を復活するといい、文部省では、今、ちえを集めて修身課復活の措置を研究しているという。ホントウに暇つぶしな道楽である、それに、文相の「道理」から「道徳」への転落も嘆かわしい、朝日新聞に文相の長々しい論説が掲載されたが、一読して骨身にこたえるものがないのが悲しんだ、有島武郎は、「道理は不易のものだが、道徳は時と共に移り変るはかないものだ、人は道理を相手として生きたい」と述べたが、その「道理」の感覚を文相はすてた、そして、変転きわまりない「道徳」に身を寄せ変節を楽しまうとしているかにみえる。たのむべきものをすてたのむべからざるものをたのむ顛落のわざというべきである、「臣道の道」は廃棄され「皇国の道に則る教育」は汚点にみちみちているのに、そしてそういう風に「道徳」に流行はあるべきであるのに、またしても、愚にもつかぬプラカードを作るという、今や、文相は学者としてもゼロである 学問にゼロなら、政治にも練達ということはまずない、だから文部行政―(あえて、文部行政という、決して文教行政とはいえない)―は、混乱とクダラナサと、退屈の絶頂にある、論理的にも満足なものでなく、事実としてはもつともつと不完全な文部省の仕事の一つを探せというなら、それはなんと易しいことであろう、といいたくなる すべて、ものごとの根本を忘れているのである、或いは、恐れて、その根本にふれないでいるのである、だから、怪刀乱麻をたつ、という水際立つたしごとが何一つできない 簡単な原理ほど、政治家を困らせるのかもしれない、学力低下の問題にしても、青少年の犯罪にしても、また教員の生活苦の問題にしても、割り切る原理は簡単であり、それを立証する事実は至るところにある、勇気を持って断々固としてやればよいのである。それこそ「一身をとして」行ずるばかりなのである、そのためには、片々たる「道徳」に没念せぬ本当の「道理の感覚」がいる。勇敢な行為をささえるものは道理をおいてはない。この期に及んでその「道理」をすてるという、その天野貞祐文相は味気なきかな(I)

               「振鈴」日教組機関紙『教育新聞』1950.12.8
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2013年07月26日

道徳教育をどうする

昨年六月“愛国心を育てる”というかけ声で噂された吉田首相の「教育宣言」発表の計画は、その後民主団体の強い反対でお流れとなつたが、今度は天野文相の“教育勅語にかわるもの”という提案にとつてかわり、新春早々、「道徳教育をどうする」という議論はジャーナリズムをわきたたせている、「修身課を復活せよ」や「道徳教育課を特設せよ」、という“時代もの”から、「全教科の中で行うべきだ」や、「社会科でやるべきだ」などに至るまで、主張はいろとりどりでにぎやかだが、どうやら大勢は、“一応道徳教育振興”の方向にむいてきたといえるようで、今後はその道徳教育の内容が大きく問題とされよう、“愛国心の高揚”や“児童不良化の防止”などの課題が、及び腰の修身課や道徳教育で解決されるかどうかも疑問だが、それよりもこういう時期の“愛国心”がどちらむきになるか、については憂慮するむきも多い、日教組でもこの問題を大きくとり上げ、来る二十四、二十五日の中央委員会の第三号議案、文化闘争の項で討議されることになつているが、時節がら関係各方面の強い関心をよんでいる、以下は本紙のしらべた関係各方面の同問題に対する態度の大要である
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