2013年03月31日

道徳教育と人権教育2

 戦後、文部大臣として〈国旗国歌問題〉に火を点け、〈修身科〉復活をともとれる発言で物議を醸した哲学者天野貞祐が昭和12年に筆禍事件を起こしたが、その問題となった彼の著作『道理の感覚』において、天野は修身科の問題を的確に指摘している。まず第一に天野は「一般に修身教科書を用ゐて様々な徳目を解明し、日常の心得を教へ、さらに解明を具体的ならしめんとして偉れた人々の言行を模範として述べてゐる。教へ方によつてはこれも確かに徳育に資するであらう。然しそれらは何れも徳行の方式を教へるに過ぎない。」と道徳的価値を教科書によって教えるのは〈徳行の方式〉にすぎないと、言い切り、それは「偉人の模範や徳目の解明やを学ぶのは言はば水に入らずして水泳の型を習ふに等しい」とした。それゆえに、教科書で教えるならば、「修身の授業が却つて偽善的心術を育成することになる」と喝破したのである。第二に天野は「生徒が修身教科書を通じて様々な徳目、様々な有徳的言行を限りなく学ぶことには、生徒の道徳的感覚を鈍らす危険がありさうに考へられる。断えず道徳の話を聞いてゐると道徳に対する新鮮な感情を失ふ恐れがある。それどころではない。教へ方によつては生徒の反抗心を挑発することさへもありうる。」と修身科によって生徒は逆に道徳的感覚を鈍らせ、時に反抗心を持つようになると言っている。第三に修身科が教科であるならば 「修身科担当者をして修身は自己独占のことの如く思はしめ、他の学科の担当者をして修身は全然自己と無関係のことの如く思はせる点において成立する。」とその教科化の重大な欠陥を指摘しているのである。
 要は修身科は、偽善者を生み、生徒の道徳的価値に対する反発を導きだし、しかも、他人事の知識として片付けてしまうというのである。
 それが天野貞祐から見た教科「修身科」の実態であった。
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道徳教育と人権教育1

 新しい学習指導要領では道徳教育がかなり重視されている。道徳教育推進教師(どうすい?)なるものが置かれることになっているのもそのあらわれだ。一方で、人権教育はどうなるのだろうか。ここに来てこれまでおそらくは疎遠にあった両者がそれぞれに再考されなくてはならないだろう。なぜかというと両者は同じ視点で物を考えてきたというそれぞれのまちがいを抱えてきたからだ。それはいずれもその問題を「心の問題」に置いてきたからだ。
 道徳教育が道徳的価値を「心の問題」としてきたことは『心のノート』なるものが道徳の教材として作成されてきたことからもわかるだろう。それはたぶんに政治的生産物であったとしても、「心の問題」とすることに異論を挟む人はいなかったように思われる。更に言えばこの『心のノート』の制作者は心理学者の河合隼雄であったということも興味深い。心理学者自身が道徳を心理の問題と考えていたのであろうか。それとも文化庁長官としての政治的発言だったのか。本人のなき今、知るよしもないが、文化庁長官が文教施策をどうこうするわけでもないだろうから、やはり心理学者としての主張だったのだろう。しかし、なぜ人間を殺してはいけないのかについて考えることと、殺戮に会館を感じる人との間に共通する問題はないように思える。
 一方、人権教育も差別の問題を物理的差別と心理的差別に区分して考えてきた(『同対審答申』)。心理的差別は心理学のもんだ所為ではないと思うのだが、「心理的」という言葉を使ってしまった段階で、「心の問題」となってしまった。人権教育関係者の間でよく使われる人権感覚という言葉自体に論理的ということよりも心理的なニュアンスを感じ取らざるを得ない。感覚の問題なのであるから、考えようによっては他人には口出しのできない心の内の世界の話になってしまう。差別をなくすには感覚を磨くのだ、といった、何とも教育ではどうしようもない目標が定められているような感がある。人間の感覚のありように教育が介入できるとは考えにくいのだ。
 ところで、先に「心の問題」にすることを〈まちがい〉だと書いてしまった。その理由を述べよう。
posted by 新谷恭明 at 15:09| Comment(0) | 研究雑感 | 更新情報をチェックする

2013年03月06日

5 基幹教育科目はこうなっている(モジュールⅡ)

【モジュールⅡ】
 基幹教育モジュールⅠは専門の学部で学ぶ前にこれまでの学び方から学びのカタチを切り換え、九州大学での学びの足腰を鍛える課程ということができるだろう。
 1年次の基幹教育モジュールⅠを修了したら、伊都、箱崎、馬出、大橋の各キャンパスでそれぞれの専攻分野の学びに入る。同時に〈基幹教育モジュールⅡ〉を受講することになる。〈基幹教育モジュールⅡ〉はそれぞれのキャンバスで開講される基幹教育科目群のことだ。理系は積み上げ式なので各キャンパスで次の段階のディシプリン科目を開講している。外国語もここでさらに磨きがかけられるだろう。とくにモジュールⅡで重要視しているのは「高年次基幹教育科目」だ。専門的な学修・研究をすすめていくに従ってそれらの学問をちがった角度から見つめなおすことも必要になってくる。
 「高年次基幹教育科目」はそのタイプにより、A群とB群にわけられる。
 A群は高年次になって、自分の専攻する学問の意味や役割を問い直すための〈知〉が詰まった科目だ。例えば科学史、科学哲学、脳科学、認知科学、現代社会、現代史、芸術などといった科目を高年次になって学ぶことで学問の本質を問い直すことができる。ことに理系の人間にとって科学史、や科学哲学はその存立の理念そのものを問い直すことになるのでぜひともお勧めだし、現代史や現代社会は学問の社会的な役割を点検するのに絶対に必要な物差しだ。また、地球温暖化、水質等に視点をおいた環境問題やエネルギー政策等の科学技術政策というような現代の科学が果たすべき社会的使命について考えることもA群科目の狙いだ。
 B群は特定の専門分野を学ぶ者にとって有用な特定の知識・スキルを獲得する科目である。例えば、医療従事者や技術者という専門家はその学問は常に倫理と向き合わなくてはならない。そうした専門家のための行動学がB群に含まれる。また、契約法、特許、知財など分野の如何にかかわらず、起業したり、経営したりする人にとってその専門的な職務を裏づける経済マネジメントにかかわる科目や、集団の合意形成をとっていくためのファシリテーション技法や、文系理系を問わずに共通に知っておきたい統計学のような方法学、国民的常識でもある日本国憲法など、学問を究めていく専門家がその〈知〉を活用するための共通の知識やスキルを身につけるのがB群の狙いになる。
 もちろん、語学はさらに磨きをかけていくことができるし、健康・スポーツ科目も学問としてブラッシュアップしていくことができる。実際にほとんどの学問領域では英語で論文を書かなくてはならないし、国際学会や国際会議で成果を発表したり、ディスカッションをしなくてはならなくなる。健康・スポーツ領域についても九州大学では大学院の課程も持っていて専門的に究めることだって可能なのだ。


  大団円 
 伊都キャンパスに春の風が吹いている。この一帯は太古の時代からアジアへと開かれていた場所だ。なにしろこのキャンパスには学術的に貴重な古墳群もある。眼前に玄界灘が開かれている。ここはアジアの玄関口、その先は世界に繋がっている。そして九州大学の未来に、九州大学で学ぶ若者の未来にひろがっているのだ。
 九州大学には無数の〈知〉の種子が埋もれている。その種子を芽吹かせ一本の木となし、林となり、森となる。そして果てしなき〈知〉の森は深く深く若者をいざなう。
 九州大学には無数の稚魚がいる。その稚魚が玄界灘から大海に出でて、七つの海を席巻する大魚となる。
 そのためには学びのカタチを変えること、新しい学びによって自分自身を変えることだ。すべては基幹教育から始まるのだ。

posted by 新谷恭明 at 13:03| Comment(0) | 管理・運営 | 更新情報をチェックする