2013年01月30日

後期定期試験問題

1月28日に後期の試験をした。試験問題は以下の通り。
チャレンジしてみようか。


二〇一二年度後学期「教育社会史」学期末試験問題.PDF
2012年度後期試験史料.pdf
posted by 新谷恭明 at 22:42| Comment(0) | 学部教育情報 | 更新情報をチェックする

2013年01月26日

天野貞祐『道理の感覚』「徳育について」五

◎然らばわが国の教育は如何なる状態に在るかといふに、其処には一つの根本的欠陥が存して右の条件を充すことが出来ない。欠陥とは教育が真の独立性を有しないことである。わが国の教育は第一に軍事教練(或は軍事教官)に由つて甚だしい束縛を受けてゐる。人は誰でも特に反省しない限り自分の受けた教育を最も良きものの如く考へ易い。幼年学校出身の軍事教官が幼年校の教育法を最上のものの如く考へても人情の自然であらう。然し中等学校の教育と幼年学校教育との間には本質的な相違が存せねばならぬ。

※日本の教育の欠陥は教育が真の独立性を有しないということだ。その第一を天野は軍事教練に見ている。軍隊教育の目指すところと中等学校教育の目指すところはちがっている。その勘違いが軍事教練にはあるのだ。
体罰教師に聞かせてやりたいところだ。

◎わが国の教育は第二に行政機構から教育の自律性を奪われてゐる。上は文部省から下は町村役場に至るまで教育には何の体験もなく知識もない人々が教育と教育者とを支配するが如き不遜な考へを懐いてゐる場合が多い。
※この点は旧教育基本法が「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」(第一〇条)と規定していたのはそのことであった。天野は既にこの考えに至っていたのである。

◎この羈絆を廃棄して教育の自律性を獲得することが日本教育の将来に課せられた重大痛切な問題である。教育は教育に関する体験と知識とを有つ人々の手に収めねられねばならぬ。
◎道理は人間が全力を傾尽して実現すべきものだ。それ以外に道理が実現し正義の行はれるに至る途はない。教育者自身が社会に跋扈する不道理を痛感せず教育の隷属を憤らぬ限り。教育の独立は獲得される筈がない。
※天野の主張は教育の行政からの独立である。しかし、この国の教育はその方向を向くことすらせぬままに破綻することになる。ようやく戦後になって教育基本法が天野の理念を実現したのだ。

◎私は社会正義に無感覚な教育関係者や諸勢力への阿附追随を能事とする俗教育家などに訴へんとする意志を毫末も有しない。実はこの種の人々が革新教育の興隆を内部から阻害するのだ。斯かる人々ではなくして心の底から人間性を愛し社会正義の念に灼熱する純正公明な教育者諸君の奮起を促したいのである。教育者自身が強くならずして、いつたい誰が教育と教育者とを社会的桎梏から解放し、教育本来の使命を達成せしむるであらうか。
※「徳育について」はこの文章で締め括られている。教育を変えるのは教師以外にないのだ。闘え教師たちよ。世に阿るな!世とは行政だけではない。世は世間でもある。天野も知育偏重ではなく試験偏重があるではないか、と述べている。今はますますそうじゃないか。教師たちよ、世に阿るな!
posted by 新谷恭明 at 23:15| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする

天野貞祐『道理の感覚』「徳育について」四

◎例へば正義といふ徳について考へてみるに、この徳を概念的に解明し、古今の範例によつて説明することは決して無益ではないにしても、それだけでは正義の何たるかは容易に会得出来ない。化学現象や機械の構造を実験なしに説明だけ聞いても十分にのみこめないのと一様であらう。しかるにもし教師が凡ての生徒を公平に扱ひ貧乏人の子でも町村長の子でも更に差別を立てぬとなれば、小学生といへどもおのづから正義の何たるかを会得するだらう。
◎百の説明は一つの実験に及ばない。
◎徳育の最も純粋な形は人格相互の直接交渉において成立すると云はねばならぬ。
※ここで天野は『福翁自伝』の記述を引用する。緒方洪庵が自分の弟子の病の処方は他人に任せたという。それは自分の弟子を我が子のように思ったからだと。しかし、我が子のように学校で子どもへの気持ちを持つ、そういう人格関係において徳育は行われるべきだという。

◎人格的感化において徳育の成立することを主張する論者は多く知育をもつて徳育に無関係、しかのみならず有害とさへも考へる。徳育尊重の主張が動もすれば知育の軽視を伴ふ所以である。知育偏重排斥の主張が近年殆ど社会の定説となつてゐたが、しかし知育偏重などという事実は我々の社会の何処にもありはしない。
◎知識を尊重せずして知育を偏重することなどは不可能だからである。然し知識を知識として尊重することは社会の極めて狭い部分現象であつて一般には知識は卑近な方便としてより外には考へられてゐない。
◎盛んなのは試験であつて知育ではない。知育偏重といふ主張は既に全く事実の認識を誤つてゐるといはねばならぬ。
※知育偏重論に対する天野の反駁である。知識は知識として尊重されなくてはならない。しかし、世間では知識は「卑近な方便」としてしか考えられていない。それは「試験に出るぞ」という意味だ。中学、高校の教師諸君にはよく聴いてもらいたい一言だ。

◎徳育は勝義においては人格の直接交渉、直接領会において成立する。教師自身がその行為において道徳的価値を実現することが最上の徳育なのである。言はば徳の実験が生徒をして徳の心髄を会得せしむること・・・・
◎第一に斯かる道徳的実験とも云はるべきものは物理学や化学の実験における如く意図的に工夫された不自然なものであつてはならぬ、意識的であつてさへも不十分である。
◎第二に道徳的行為の質料は道徳的価値ではなくして一般に事物或いは事物関係の価値である。
※教師自身が日常的に示している行為そのものが最上の徳育なのだと、天野は言う。そして作為的な道徳的行為はまずい。第二については前述の緒方洪庵の例では、緒方洪庵の行為がめざしたものは弟子の生命を救いたいという生命価値であって、その結果愛という徳が実現されたのだという。治療、献身が事物関係の価値、愛が道徳的価値なんだな。

◎それ故に徳育は生徒の道徳性を直接の目的にしなければ行はれぬと考へるならば、甚だしき迷妄といはねばならぬ。しかのみならず生徒の道徳性を直接の目的とすることにはさきに述べた如き重大な危険が伴ふに反して、実践的訓育にはさういふ危険の存せぬことも注意されねばならぬ。徳行の質料が右の場合においては生命価値であつたがそれが他種の事態価値でありうること、随つて精神的知的価値でありうることも明白である。この点からして知育と徳育との関係、知育の有する徳育性が闡明される。教師が生徒の知識を向上せしめんとして我を忘れて他へ没入努力することは知育であると同時に徳育である。
◎知育に熱中している教師は決して直接に徳育を目ざしてゐるのではない、そのことが却つて道徳的感化を齎らすのである。
◎知的価値を質料として教師は愛、誠実、勤勉、努力等々の諸徳を実現し、それを通じて生徒はこれらの徳を会得する。
※徳育はそれ自体を目的とすれば危険が伴う。そうではなくて、知育をきっちりやることが徳育となるのだと天野は言うのだ。


posted by 新谷恭明 at 14:36| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする