2012年08月25日

アクティブラーナー

 東京での大学説明会で講演をすることになっていた。すでにパワーポイントの資料は作ってある。内容は多岐にわたってるが、一つの柱として立ててあるのが現在カリキュラム作成中の基幹教育である。基幹教育の趣旨はアクティブ・ラーナーの育成であり、それは基幹教育の要にいる丸野教育担当理事の持論でもある。
 8月5日にオープンキャンパスが実施されたが、ここでは丸野理事に大学での学びについて講演をしてもらった。学習心理学が専門の丸野理事であるから、大学での学びについての理論的な説明はまさしく真髄と言えるものであった。
 くりかえすが、基幹教育というのはアクティブ・ラーナーを育てることが主眼である。コツコツと教師の言うとおりに学んできた高校生たちが入学試験を突破して大学に入ってくる。彼らの学びの習慣は与えられたものを吸収し、用意された答えにどれだけ接近するか(できれば同一化するか)に目標がある。しかし、大学での学びはそれとは全く異なる。僕の講演用のスライドでは「学びのカタチを変える」というフレーズでそのちがいを表現した。これまでの学びのカタチを変えるのが基幹教育の目的であり、その仕掛けに入学直後の一年生を取り込もうというものだ。
 一年間の基幹教育の間に大学での学びのカタチを体得した学生(アクティブ・ラーナー)に変身し、以後の大学生としての学びの世界に飛び込んでもらおうというのである。
 ところで、大学ではこれまでは講義と演習ないしは実験、実習という種別の教授法があった。殊に講義というのは伝統的な大学の教授方法であり、そこから名著と言われるものも数多く誕生してきている。デュルケムの『教育と社会学』はパリ大学での講義を教え子のフォコンネが筆写したものであり、フロイドの『精神分析学入門』なども元は講義録である。もとい学生は教授の講述をできるだけ正確に書き写すことに神経を集中した。
 明治期に学生の書き残した講義ノートを見たことがあるが、全くぶれのない、そのくせ極端な斜め文字(英文)で延々と途切れずに続くものであった。おそらく外国語で語られた講義を効率的に写し取ったものだったのだろう。
 教授も板書などはほとんどしなかったと思われる。あくまで注意すべき文字の確認であるとか、絵的なものは板書したであろうが、後は書き言葉による講述であった。ぼくが師匠から聞いたのは「第一章 教育の原理 改行。一字空ける。諸君、本講義では教育的営為とは何であるかについて○○○○○考察するものである。(マル)しかるに、(テン)」という具合にやったものらしい。そして一年間の講義が終わって書店に行くと当該教授の執筆になる本が並んであり、受講した学生は新刊書を一冊まるまる儲けたということになったそうだ。
 ここで注意してほしいのは教授と学生の間に介在するのは講義であり、それは執筆者と読者との間に介在する書物と同義であったということである。
 書物から学ぶとはどういうことであろうか。高校生が教科書をひたすら記憶するように我々は学術書を読まない。著者が言いたいことはなんであるか、そのためにとった著者の方法はどういうものであり、その選択は正しかったか。その書物が提示した事柄は批評のまなざしにさらされるのである。もちろん書物を鵜呑みにして研究の道に入っていくことはできない。学術書を批判的に読むだけの力量が必要なのである。だから、初学者として入門的な著作を読んだときはほぼちんぷんかんぷんであったものが、歳月を経て読み返すとその独創的な点もはたまた問題点も易々と読みとることができるのである。
 それが学術書を読む力である。学術書を暗記する力ではなく、理解し、批判する力であり、そのために必要な学術知を身につけ、高度な問題意識を持っているということである。
 講義もまたそのようにして聴かれるべきであり、聴くべきなのである。大学の講義は教授という研究者から学生という時代の研究者へ知の体系を伝授する方法なのであった。だから講義は授業とは根本的にその意味がちがうのである。授業は多くは初等教育において行われるものであり、教師は子どもたちとのやりとりの中から子どもたちの資質を引き出していく技法である。だから授業を行う教師には授業の技術が必要となるのである。
 大学は知の共同体であったはずで、そこでは授業ではなく、講義が必須の知の伝達手段であった。つまり、本を与えるように、である。しかし、大学は研究の成果を次代に伝える必要がなくなってきたのである。つまり、次代と期待されていた学生諸君は今や学問の継承者ではなく、また学問の生産ともかかわりなく、社会とやらの生活者になっていく者たちでしかないのである。学問を学ぶことが社会の指導者となっていくことはなくなってきたし、彼らに学問を通しての人間形成(天野貞祐)をする必要もなくなってきたのである。換言すれば、彼らに講義で伝えるものはないのかもしれない。
 大学は大学ではなく、高等教育機関になったのだろう。現在の大学生は学修者ではなく、被教育者となったのだろう。しかし、九州大学にあってはそれではいけない、とするのが現在の基幹教育院の危機感なのである。九州大学では学問を伝えたいし、その後継者を育てたい。学問をすることによって社会を動かす資質を身につけさせたいし、そういう人材を世に送り出したい。それがアクティブ・ラーナーの育成なのである。
 『エコノミスト』誌8月28日号は特集は「大学淘汰」であった。大学淘汰の時代において生き延びポイントに「教育力」があげられていて、教育ジャーナリストなる人の文章が載っていた(友野伸一郎「偏差値、ブランドに次ぐ大学選びのポイント『教育力』」)。
 この文章ではまず大学での授業は「講義」と「ゼミ」にとどまらず、最近では「アクティブラーニング」が増えているということを紹介している。そして「このアクティブラーニングが今、大学教育の中で大きな注目を集めている」と指摘する。それは「より正確に言えば、『教育力』を問題とし『学生が何が出来るようになったのか』を課題として取り組む」大学で導入されている方法であり、「背景には、大学に誰でも入れるユニバーサルアクセス段階の到来があり、大学が偏差値やブランドだけではなく『教育力』でも選ばれる時代が始まっている」と言うのだ。
 友野氏の言うアクティブラーニングとは「授業中に学生が何らかの能動的な関わり行うすべての授業が含まれ」、「授業中にディスカッション(議論)、プレゼンテーション(提案)、フィールドワーク(野外調査)」をしたり、『調べ学習』や小テスト、『振り返り(過去の講義や活動などの反芻)』を書いたり、あるいは理系では実験等の授業をイメージしてもらえばいい」というものである。「そうした知識は、教授から学生へとコピーするようなイメージで得られるものではない」ことが特徴であり、「生涯忘れず活用できる知識」なのだと言う。
 そしていくつかの事例をひいているがそれらについては触れないでおく。問題はこのアクティブラーニングの背景にある事情が「大学に誰でも入れるユニバーサルアクセス段階の到来」によるものだと言うことである。つまり、学ぶ力が欠如した学生が増えている。換言すれば講義を聴いて自分の関心として吸収し、自分のものにする力に欠如した学生が増えていることに対する対処なのだということである。
 私たち研究者は本を読むとき本に書いてあることを鵜呑みにして読んだりはしない。それはわれわれが受けてきた大学での学問体験のたまものであり、その後の職業生活の過程で得たものでもある。そして、〈現在の学生たちにはその学びの力がない〉というのはわれわれと友野氏の紹介例との共通した認識かもしれない。しかし、友野氏の紹介しているアクティブラーニングは卒業に至るまで学生の知の獲得のお手伝いをしていくことになっている。それがユニバーサルアクセス段階で期待される「教育力」なのだ。
 九州大学では昨年基幹教育院を立ち上げ、現在基幹教育カリキュラムを設計しており、平成26年から実施の予定である。そこでは「アクティブラーナーの育成」が主眼となっている。「アクティブラーニングの導入」ではないことに注目してほしい。もちろん、アクティブラーニングは基幹教育では大きな手法の一つである。アクティブラーニングを取り入れることで大学で学ぶ力を獲得させるために、である。アクティブラーニングは学ぶ方法を体験させる技法であり、知識が目標とはなっていない。知識は学生自身が紡ぎ出すものであり、それをできる学生がアクティブラーナーということになる。ここに他大学とのちがいをわれわれは求めたい。しかし、いわゆる「高い偏差値とブランド」を持った大学であってもユニバーサルアクセスの波からは逃れられない。なぜならば高校教育が大学教育の準備教育という役割を放棄してしまい、大学入試の準備教育に力を注ぐようになってしまっているからである。それ故にたとえ東京大学であろうと例外ではないらしい。
 と言うことで、基幹教育院のめざす教育は大学教育全体をアクティブラーニングにすることではなく、アクティブラーナーに育てることである。つまり、大学の講義なり、ゼミなりをきちんと受けられる力をつけてもらうことになる。なぜならば大学の講義を聴く力は読書力であり、研究能力である。それは研究者のみが必要とするノウハウではなく、世界を読み解き、理解する力であり、次代の指導者にとって必要な資質なのである。




posted by 新谷恭明 at 07:30| Comment(0) | 管理・運営 | 更新情報をチェックする

2012年08月24日