2012年07月23日

大正自由教育再考

 本日の学部ゼミで和崎光太郎「大正自由教育と『赤化思想』」を読んだ。ゼミで読むのは2度目になるのかもしれない。大正自由教育といわれるものは和崎さんからは「反体制であることが、中身を問わず「サヨクだ」と言われる不思議。その歴史的起源にせまった、自分なりの考察です。」というコメントをいただきました。
 川井訓導事件は大正13年9月5日、県臨時視学委員であった東京高等師範学校教授樋口長市が松本女子師範附属小学校を視察した際に起きた。和崎によると、「授業が終わろうとしたまさにその時、畑山(県学務課長)が生徒の面前に躍り出て川井に国定教科書不使用の理由を問責、授業後の批評会でも樋口らが川井訓導をきびしく叱責した」のである。この後、川井は「事実上の懲戒免職」となったものである。
 和崎はこれに先立つ同年2月25日に下伊那郡上飯田小学校が火災で焼失した事件で白樺派教師小松宇太郎を逮捕されたが、これが全くの冤罪であったという小松訓導冤罪事件を伏線として捉えている。そして小松訓導が逮捕された前後にLYL事件が起きている。
 また、樋口長市は川井訓導事件の2日前である9月3日に飯田小学校を視察し、やはり授業視察のあとの批評会で飯田小学校の授業について痛烈に批判をし、これも新聞紙上に報道された。これを和崎は飯田小学校事件として位置づけ、これらは一連の「赤化思想」叩きであり、樋口の南信視察はそのように仕組まれたものであったと匂わせている。そして、大正自由教育は「赤化思想」でもないのに「赤化思想」の恐怖を煽るために叩かれたのだという結論を和崎は見出している。
 これらの事件を一連の布石の中で捉えた和崎の慧眼には感服する。
 で、だ。LYL事件といえば、この時巻き沿いを喰ってダメージを受けたのが、自由大学運動であった。一方、臨時教育会議で兵式体操振作についての建議が提出されたが、これはしばらく文部省は黙殺していた。しかし、やがて軍縮の煽りで将校が余りだした陸軍省(宇垣一成)と、学生生徒の思想問題が課題となっていた文部省(岡田良平)が歩み寄って陸軍現役将校の学校配属を嫉視したのは大正15年度からであったことを重ね合わせると、これらは一連の潮流の中にあると言えよう。就中、思想問題に取り組んでいた岡田良平にしてみれば、自由教育叩きは格好の「手」だったと言えるのではないか。岡田は千葉命吉の弁明を長時間にわたって聴いたというし、大正自由教育に対して聞く耳を持たなかったわけではないと思う。しかし、それはそれとして理解した上で戦略的に自由教育を敵に回したのであろう。そして長野県も、である。小松訓導冤罪事件は作為的であったとしか思えない。かつて大逆事件をでっちあげて社会主義者の恐怖を世間に知らしめたのに倣い小松訓導冤罪事件をでっちあげたふしがあるし、きわめて意図的に樋口長市を使って飯田小学校の実践、そして川井訓導をスケープゴートにしつらえ、「赤化思想」の駆逐をはかろうとしたものであろう。
 和崎論文は適確に川井訓導事件の謎を明るみに引きずり出した。但し、自由教育は「赤化思想」と同一視されるような反体制的教育であったのだろうか。例えば手塚岸衛の言う積極的自由なるものは乃木大将の殉死を讃え、天皇イデオロギーを理想の行き着くところに位置づけている。千葉命吉やその他の新教育の旗手たちにしても熱烈なナショナリストであったと言えるわけで、彼らに反体制的な色をつけてみようとしたのはなぜだったのか。それは茫漠とみえているが、まだ言語化できるだけの形をなしてはいない。
 もうひとつ。LYL事件は「赤化思想」を問題化させ、「気分教育」を巻き添えにすることに成功したが、同時に長野県のもう一つの教育運動である自由大学運動にも打撃を与えている。土田杏村の提唱した自由大学の理念は「プロレット・カルト」論に基づいており、「赤化思想」に同化されやすいスタンスでもあったし、そう思われても仕方のない講師陣もいた。となると、川井訓導事件、LYL事件、自由大学運動の衰退は全体として構造的な事件であったとみることができるのではないだろうか。
 
posted by 新谷恭明 at 16:07| Comment(1) | 研究ノート | 更新情報をチェックする