2012年03月26日

中等教育学校について(その四)

 中等教育学校というのは日本の学校制度では非常に微妙な理念的位置にあることは最初に述べた。そのことは敢えて措いた上で中等教育学校を卒業した人間は十八歳になるはずだ。現在選挙権を十八歳に引き下げようとか、成人と少年の境目を十八歳にしようとかいう動きがあると聞く。実際、日本の近代史の中で十八歳と二十歳はおとなと子どもとを区分けするラインとして引き合ってきた。とは言うものの、学校教育の観点から言えば十八歳が妥当なのではないだろうか。つまりは中等教育を終える頃に成人するというものだ。
 そうすると中等教育学校の教育目的は明確になる。「成人になる」そして「市民になる」ことだ。教師の立場から言えば「おとなにする」「市民的義務と権利を身につけさせる」ということだろう。そうすれば、そこで必要な徳育とは市民道徳であると言っていいのではないだろうか。成人としていかにふるまうか。この国の国民としてどういうことをしなければならないのか、そしてしてはならないのか。地球市民として何をなすべきで何をすべきでないのか。そうしたことが中等教育学校で身につけるべき道徳になる。
 そういう観点から道徳について考えてみるべきなのだと思う。まず成人として必要な資質、個人的道徳としては「職業人となる」、「結婚をする」、「親となる」という事項が相当するだろう。次いで、「この国家もしくは社会の形成者であること」、「国際社会での生き方を知っていること」といった社会道徳が教えられねばならないだろう。
 こうした道徳はこの国の成り立ちやあり方と深く関わる。日本という国は国民主権の民主主義国家であることは異論のないところであると思う。天皇制をどう見るかという議論まで至る必要はない。象徴天皇制が現在の合意事項であるということ以上はそれぞれの「思想」の問題なので徳育では棚上げしておいていい。必要なのはイデオロギーではなく、この社会のしくみであり、そこにかかわる国民として、市民としてのかかわり方である。この国は国民が主権者であるが故に主権者としてなすべき義務と国民として持つべき権利について学ぶことが必要である。この国をどちらに持っていくのもこの国の若者たちの力である。どちらへ持っていくにしてもこの国のしくみの正しい運用の仕方を学ぶのは中等教育学校に於いてであろう。
 中等教育学校=青年期では生徒たちの人格はほぼできあがっていると言ってよい。人格の陶冶みたいなことを徳育に求めても、それは前述したように注入と無視の関係にしかならない。人格ではなく社会で生きる作法をきっちり教えることが実は徳育となるのである。
 
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中等教育学校について(その三)

 なぜ失敗であったのか。失敗と言えるのか。それは子どもたちの日常とは遠い具体例を出されて、そのように立派な人間になれ、と言われても、そのように思い、身に行う子どもはおそらく稀だろう。また、たとえば孝行のような徳目を具体的にした逸話を読んで、そのように親孝行をする子に育つかというとそんな子はいないはずだ。

 渡邊登は十四歳のころ、家がまづしい上に父が病気になつたので、どうかしてうちのくらしをたすけて、父母の心をやすめたいと、かんがへました。登ははじめ、がくしやにならうと思つて、がくもんをべんきやうしてゐましたが、ある時、人から「ゑをかくことをけいこしたら、くらしのたすけになるだらう。」とすゝめられ、すぐある先生について、ゑをならひました。父は二十年ばかりも病気をしてゐましたが、登はその長いあひだ、かんびやうをして、すこしもおこたりませんでした。父がなくなつた時、大そうかなしんで、なきながら、ふでをとつて、父のかほかたちをうつしました。さうしきがすんだのちも、朝ばんきものをあらため、つつしんで父のゑすがたにれいはいをしました。
 孝ハオヤヲヤスンズルヨリ大イナルハナシ。

 これは国定第三期の教科書『尋常小学修身書 巻四』の一節である。渡辺崋山の幼少期の父との関係を描いたものであり、さらに弟との別れ、一生懸命勉強して絵が上達し、学問も進み、世間の人から敬われるようになったと話は展開していく。この渡辺崋山の出世譚から子どもたちはなにかを学ぶだろうか。そこには渡辺崋山になれない現実の子どもたちがおり、貧しさから抜け出せようのない子どもたちがおり、努力しても伸びる才能を持ち合わせない子どもたちがいる。その子たちがどうして孝行や勤勉を学ぶことができるだろうか。
 とは言え、あの戦争中に軍国少年が育ったのは修身科教育の所為ではないかと言う声もあろう。しかし、軍国少年になったのはもっとちがう要素だったのではないだろうか。
 戦後、修身科は廃止された。やがて再び道徳教育の復活をもくろんでいたとき、文部省は修身科について「修身科では,これらの徳目を中心として組織された学習内容が,主として教科書の講読,格言の暗誦,教師の訓話など,いわば教師の一方的な注入によって教えられる傾向が強かったので,児童の人問性を内面から開発し,実生活にあたって自主的に判断し行動し得るような能力を養うという点で欠ける面が少なくなかった。いくつかの徳目の観念的な理解に終ったり,時としてはかえって児童に表裏のある生活態度を植えつける場合も生じた」(『学習指導要領社会科編』昭和30年度改訂版)と負の評価をしている。
 殊に一定の人格形成ができてからの青年期に於いて徳目の注入のような道徳教育は効果を持たないであろうことは確かだ。同じ『学習指導要領』ではさらに「そのような例話を通して児童に感銘を与えておきさえすれば,かれらが将来いろいろ異なった現実の事態に対処していく場合,いつでも正しい道徳的判断をし,望ましい社会生活ができるものと考えるのは早計である」と述べている。道徳的感銘と実際の道徳的判断との間には大きな落差があるということなのだ。
 現在「同和」教育や人権教育などで〈差別はいけない〉ということをいくつもの逸話教材や教師からの説諭、仲間同士の議論などで子どもたちは叩き込まれている。中等教育を終え、大学で人権問題についての講義でもすると「差別は決してあってはならないことだと思います」という感想文が返ってくる。特に講義中居眠りをしているような学生ほどそういう「正解」の感想を書いてくるのだ。これは中等教育における倫理観や徳目の注入ほど虚しい結果に終わるものであることを示している。
 こういういくつもの失敗を踏まえた上で、中等教育学校(=青年期の教育)において「徳育」を中心に持ってこようとする時、その徳育のめざすものは何にすればいいのであろうか。
posted by 新谷恭明 at 21:07| Comment(1) | 研究雑感 | 更新情報をチェックする

2012年03月16日

中等教育学校について(その二)

 先日、某センセの紹介で愛知県からYさんが来訪された。愛知県の私大の教授で、元は高校の校長をされていたという。そして今度新たにあるところで中等教育学校を開設するのでその仕事をお引き受けになったんだとか。
 ということで、お話をうかがいながら、中等教育学校というものについてあらためて考えることになった。Yさんがやりたいと言われるのは徳育を柱にした学校だという。これはむずかしい。Yさんもそこが気になるところだったようだ。
「今どき徳育というとミッション系か、ややもするとウヨクみたいに思われてしまうので、困るんですね」
と言う。まさにその通りだ。
 かと言ってそうではない徳育はあるのか。もしくは徳育をやらない教育はありうるのか。あるとすればどういう徳育が期待されるのか。そのあたりが問題なのだ。スペンサーあたりが「知育、徳育、体育」などというキャッチコピーを作ったのがよくなかったのかもしれない。最近では「学校、家庭、地域」というコピーも困りものだ。ア・プリオリにそれらが三つの要素として存在しているかのように思い込ませてしまうからだ。そして教育についての幻想を振りまいてしまうのである。誰もが「教育とは知育徳育体育であり、そのうち徳育が・・・」と論を進めると納得してしまうし、道徳教育を無前提に嫌いな人は耳を塞いでしまう。なぜならいずれの場合も「知育徳育体育」は公理としてあると刷り込まれているからである。子育て論の時も「学校家庭地域の力を合わせて・・・」と語ると一様にふむふむとうなづいてくれる。
 しかし、いずれもその根拠などというものはない。スペンサーにしたところで、ほとんどの人がスペンサーの教育論を読んでいないだろうし、スペンサーの教育論に基づいて教育を論じてはいないだろう。にもかかわらず、「知育徳育体育」が我々の脳裏に刷り込まれているのは、それがキャッチコピーとして秀逸だからである。「学校家庭地域」も同様であるが、これは措いておこう。
 ところで徳育だが、近代学校教育のはじめから徳育はある種の政治的思惑の中で構想されていた。福沢諭吉が修身用の教材としてチャンブルの「moral class-book」を『童蒙をしへ草』として訳出したのは、西洋文明を理解するには西洋の道徳を知るべきである、という考えに基づいていた。福沢はその序で「初学入門ノ初ニ先ツ此書ヲ読ミ慎独修身以テ分限ヲ誤ラズ。次第ニ物二接シ人ニ交ルノ道ヲ明カニセバ彼ノ経済、窮理、史類百般ノ学モ其実ノ裨益ヲ為シテ弊害ヲ生ズルコト莫カル可シ」と述べているのはそういうことである。そして、そのめざすところが「報国尽忠」であることもその序文にある。
 ところが、徳育の内容については見解はさまざまであり、福沢はその基本を西洋に求めたが、天皇側近の元田永孚は儒学に求めていたというようにである。これに決着がついたのは教育勅語の渙発であったと思うが、教育勅語以降、徳育=修身科の内容は教育勅語に基づくということが原則になる。それは孝悌、仁慈、信実、礼敬、恭倹といった生活上のいわば個人に帰す徳目に始まり、「尊王愛国」「国家に対する責務」といった社会的徳目に帰結するという構造である。
 戦前の修身科ではこれらの徳目を主題とする逸話を列挙して伝えようとしてきた。これは基本的に失敗であったと言ってよいだろう。
posted by 新谷恭明 at 18:48| Comment(0) | 研究雑感 | 更新情報をチェックする