2011年03月04日

手塚岸衛の自由教育論について7

四 自覚という方法
 手塚は自由教育の方法として「自学」を挙げる。彼は「学校生活の何処を切取つても、自学自習の血が流れて居るやうに学校を改造しなければならぬのではないか、命令に依つてのみやらせるのではない」(二十五)と「自学自習」による学校改造を提言している。それは「子供の自学は自覚に基くもの」であり、手塚は「真の自学をなさしめようとすれば、子供の自覚に訴へなければなるまいと考へた」(二十六)のであった。
 手塚は「方法としての自由、子供に自由を許す範囲が大なれば大なる程、子供の自覚を喚び起す範囲も大で、子供の自覚の範囲が大なれば大なる程自学が本当のものになって来る」という。いやそのことに「気附た」(二十七)のだという。自覚は自由と背中合わせである。自由が価値に従うことであり、そのことを自覚させていくのが自由教育の手法なのだというのが手塚岸衛の自由教育論の本旨なのである。

 手塚の自由教育論は決して通俗的な自由論議の対象としては存在していない。その次元の「誤解や非難」につきあったために、否、通俗的な「誤解や非難」を生むような「自由」という言葉をその教育に冠したことがそもそものボタンの掛け違いを生んだのだと言えよう。
 手塚の自由教育論には通俗的な意味での自由はほとんど見られない。前提には人間なら理性が導くであろう「普遍の価値観」が存在し、子どもたち自身に自覚させつつその価値観の方向に追い込んでいくのが、自由教育論の基本構造であった。上手く自覚させるのが教師の力量というものであったと考えられる。しかもその目標とする価値は実に曖昧であり、彼の論っているところを見れば、時代において支配的なイデオロギーに準拠したものでしかなかった。少なくとも通俗的な「自由」の次元で議論するほど自由なものではなかったと言えよう。
posted by 新谷恭明 at 20:06| Comment(0) | 研究ノート | 更新情報をチェックする