2011年02月26日

手塚岸衛の自由教育論について6

三 服従への道
 自由教育論に対する「誤解や非難」が見逃しているのは手塚における自由と服従の関係である。
 手塚は服従について四つ挙げている。それは自由、服従、屈服、盲従の四つである。手塚の説明とは逆に盲従から説明しよう。盲従とは手塚に言わせれば「無根拠の服従」のことである。これはその命令に対して何も考えずに従うことであり、現場にはしばしばそのように子どもに命令する教員がいることを手塚は匂わせている(二十二)。そして屈服は命令に対して異論があったとしても形だけ従おうとすることである。こういう行動を取る人を手塚は「横を向いた服従者」であると言う。
 第二義の服従というものについては命令に対して自分も同意見であると納得して従うことであると手塚は言う。命令を受けていろいろ思ったにしても、「深く反省して見ると自ら斯くあるべきである」とその命令の正しさを認めればそれは単に服従と言うことができ、たいした問題にはならない。
 そして服従の第一義である。

 我々は自由が服従の第一義であると思ふ。服従とは自由の謂である。それは自ら立てて自ら律する。己の法則に我が従つて行く有様が、是れ即ち自由である。而してそれが真善美である。規範にかなつて行く有様が自由であります。即ち我が我に従ふ有様が即ち真の服従である。何故ならば普遍妥当の我に我自らを律して行くのでありますから服従でなくて何でありませうか。故に服従の第一義は真の自由であると考へるのであります。(二十三)

 前項でも説明したように手塚は真善美という普遍の価値観を絶対視する。この価値観は人間が自由に選択すれば必ず到達する価値観であるから、その価値観に従う、つまり服従こそが真の自由なのだというだ。
 しかも手塚は実際の現場では、「教師の命令が価値ある限り、教師がより高き意志を代表せる限り」屈従(屈服)や盲従を強いたとしてもかまわないとまで言い切っている。それは「自由とは価値に従ふの謂」による(二十四)。たとえ「万已むを得ぬ時」とはいうものの、教師の価値観の絶対性、教師と生徒の命令と服従の関係を手塚は容認しているのである。そのことは手塚の自由教育論を語るときにほとんど無視されてきたのではなかろうか。
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手塚岸衛の自由教育論について5

(続き)
 その普遍の価値観をつくる理性であるが、その理性の根拠は非常に薄弱である。「理性は斯くせねばならぬと云ふことであり、自然は何々であると云ふ事実である。」(二十)というだけであって、「斯くせねばならぬ」価値の体系については何も語られていない。ただ、手塚の列挙するものを見れば、先代萩の千松が毒菓子を食べて主君の身代わりになったこと、伯夷と叔斉が周の粟を食べるのを潔しとせずに餓死したこと、乃木大将の殉死などであり、いずれも何らかの理念によって敢えて自身の死を選択している。それらの例が「普遍の理性」であり、「人間性」であるというより、当時の時代を支配したイデオロギーのひとつであるとしか思えない。
 そのイデオロギーを手塚は「真善美の規範」であると言い、「『価値の儘に行動する』(価値の儘は真善美の儘に行動する)と云ふことが即ち自由である」(二十一)とする。それを自由と呼ぶのは明らかに通俗的な自由の理解とは全く異なる。手塚はあくまで真善美という価値観(何を以て真善美とするかについては当時の社会において望まれている通念でしかない)通りに選択をすることを自由と呼んでいるのである。
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2011年02月25日

手塚岸衛の自由教育論について4

(続き)
 それでは積極的自由とは何であるか。手塚は動物や植物が自然のままに生きている生き方と人間とはちがうところに自由の意味があると言う。自然のままに生きている動物は空腹を覚えればそこにある食い物を食う。そこに選択という余地はなく、ただ自然の欲望のままにそれを満たすのである。それゆえに動物には自由はないのだという。
 それに対して人間は選択という行為を経て行動を決定する。それが積極自由なのだと手塚は規定する。空腹の時にそこに食べ物があったとしても、人間は食べるか食べないかの選択をする。食べることも選択できるし、食べないことも選択できる。それが積極自由だというのである。
 手塚は「自由があるとは自己意識があることで、自己意識があるとは自ら知つて居ると云ふことである。知ると云ふことはどう云ふことであるかと云ふと、今選んだことに付て知るのみならず、他の選ばなかつた所の動機も選べば選ぶことの出来たものをこちらから見立てて選んだと云ふ時に、独り選ぶべきを選んだと云ふ自由を承知して居ります」(十七)とその理屈を述べる。人間は自己意識があるのでその選択することの何れの理由についても知っており、その知識の上で選択をするのだということである。だから「今決定した右の外に左に決定することも出来ると云ふことが含まれてゐる」(十八)という説明になる。食べなかったという選択をしたときには食べることを選択した場合のことについても知っている、ということだ。だから食べないという選択をしたのはその人間の積極的自由だというのだ。
 ところで、その選択はどのように行われるかというと、まさしく「其の動力は即ち自由」(十九)なのだと手塚は言う。しかもその自由は何にもとづいてこの選択をするのかというとそれは「我の要求」なのだと言う。この「我の要求」を手塚は突き詰めていき、「普遍妥当、永久不変なる我」であり、「万人総ての人に共通したる所の我」であり、真善美という価値観もそこから生まれると言う。それを「理性」と呼び、「人間性」と手塚は呼ぶのだ。これを具体的に説明すれば(なぜか具体例を出すのが好きな手塚はここでは何も例示していない)、赤信号ならば停まるのは積極的自由によるものなのだ、ということになる。それは停まらないという選択肢もあり、停まらなければどういうことが起きるかを人は知っていて、理性なるものが停まらないという選択を避け、停まるという選択をした結果なのだ。だからこれは積極的な自由なのだ。というのが手塚の積極自由の理解である。そして手塚はこの積極自由こそが「教育の目的としての自由でなければならぬ」と結論づける。
 どうと言うことはない。手塚の言う理性なり、人間性なるものは万人共通のものであるのだから、人間はその普遍の理性なり、人間性なりに従った選択をすることになる。そのように仕向けることが教育の目的なのだと言う。つまり、普遍の価値観を子どもたちの中に作り上げることが手塚の自由教育の目的なのである。
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