2009年11月11日

不快

今日の午後、銀行振込をしようと記念講堂前のATMへ行った。ちょこっとそこに車を停めて出てきたらなにやら職員らしきやつがノートに車のナンバーをメモしている。「ナンバーしよっと?」とでも言いたかったが、おおかた雇われて不法駐車をチェックしているにちがいない。ジロッと睨んで、車を動かした。こいつに何か言ってもかわいそうだし。
伊都キャンバスでもゲートの外にある全学教育用の駐車場に雇員が待機していて、車の入構証を確認に来る。あの夏の炎天下に張り付いているのだから、ご苦労なことだ。
しかし、どうにも大学当局が教職員の車の置き場所程度のことに監視の目を光らせているようで非常に不快感を感じる。その人件費を他に振り向けては々だろうか、と人件費の削減されている昨今故に思わざるを得ない。
先日はミスで入構カードを忘れてきた。その旨詰め所で言ったが、結局300円の料金を払って入構することになった。年間契約で大枚はたいているのになおかつカードを忘れたら300円を払わなくてはいけない。どうにも理不尽な気がする。不特定多数に市販されている乗車カードとはちがって教職員が一年間入構しますよ、という権利のために1万数千円払ったのであって、これも当局から信用されていないという感触を受け、厭な気持ちになった。本人が確認されれば入構させてくれても良さそうなのだが、そういうマニュアルにはなっていないようなのだ。
このままではこの大学はダメだ。某教授がこの入構課金制度について闘いを続けているが、こういう扱い方をされると彼に与したくなってしまう。
伊都キャンバスはもとより市民に開かれたキャンパスだと標榜していたのに教職員に対してこの有様なのだから推して知るべし。箱崎の市民だって九大に愛想をつかすだろう。排外的、管理的、威圧的なのだから。
posted by 新谷恭明 at 19:30| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2009年11月09日

学会で発表するということ



もうすぐ九州教育学会が開催される。地方学会でもあるし、見知った会員が多いという気楽さもあるだろう。しかし、それでも学会は学会。発表を控えて緊張している人も多いだろう。なにしろ普段は研究室の中だけで指導教員の言うことだけを信じて来たものの、学会では他の研究者の目にそれが晒されるのだ。
今、他の研究者の目に晒される、と書いたが、それは自分の指導教員以外の人に見てもらう、ということではない。学会の会員として発表する限り、それは教員も院生もない。ひとりの研究者として対等の存在で参加しているのだということをまずは肝に銘じておくべきだ。
つまり、学会で発表するということは研究成果を世に問う、ということである。ゼミの発表を公開するということではないし、学習成果を誰かに見てもらうことでもない。まして、業績づくりと称して、発表1本というアリバイを作ることでもない。そんなものが学問の世界においてどういう意味があるのか考えて欲しい。何の意味もない。
学会は教育学の進展に寄与するべき研究成果を報告する場であって個人の功名心を満足させるためにあるわけではない(そういう下心は動機として否定しないが)。そこで発表したものは世界に公開されたものであって、どこの誰から批判されて然るべきものであるし、そういう責任がともなうものなのである。だから場合によってはさんざんに扱き下ろされることもあるだろう。
それを「他の先生方による指導」などと勘違いしてはいけない。学会は指導の場ではないのだ。よその院生の指導のために旅費を払って出ていくような暇人ではない。あくまで先端の研究成果を得に行くために研究者が集まるのだ。
だから発表したものが批判されたり、非難されたりすることは、研究書の類が時として書評なんぞでコケにされるのと同じことだし、見解の異なる研究者からは否定されることだってある。くだらないものはくだらないと言われる。そういう社会的責任性のあるものなのだ。誰それの研究は斯く斯くゆえにダメだという非難も含めた(非難はよろしくないが)批判の場に晒されるということになる。

九州教育学会は小さな地方学会である。しかし、研究会のような閉じた存在ではなく、そこで発表するということは一研究者として(院生として、などという甘えは赦されない)学界(世界の「界」だ)に問うことだ。「修士論文の一部をまとめてみました(^^;)」などとふざけたことを言ってはいけないのだ。たとえ、修士論文の一部であったとしても(おそらくは素晴らしい論文であったのだろう)、その一部は学会(学界)になにがしらの貢献をするものだという自負が必要だ。
昔、僕が初めて学会発表をしたとき、恩師の先生は僕の原稿に目を通してこう言われた。
「これなら学会になんぼか貢献出来るナ」
この一言が自分を支えている。貢献できるものを発表する。それで学会に財産が出来る。そういうために学会はあるのである。軽々に業績稼ぎや、ゼミの学習成果のまとめのために学習発表みたいなことはするものではない。そこは常に研究の最先端のディスカッションをする場なのだ。
発表を控えた院生諸君、覚悟をして学会に臨もう。君は先端の研究をしているか。君は先端の知の批判に応えられるか。
posted by 新谷恭明 at 15:00| Comment(0) | 研究雑感 | 更新情報をチェックする