2009年10月05日

県立大学公開講演会

何とか終わった。当日配付資料だ。
posted by 新谷恭明 at 14:58| Comment(0) | 研究雑感 | 更新情報をチェックする

2009年10月02日

県立大学公開講座(3)

3.村の教師から国家の教師へ
◎国家の学校へのブラッシュアップ
○森文政のねらい・師範教育
 初代文部大臣森有礼は学校制度の根本的な整備をはかろうとした。中でも最も重要視したのは教員養成であった。森は臣民形成は小学校から始めなければならない、しかし、その小学校で教鞭を執る教師の育成が最も重要であるという考えから師範学校制度を抜本的に改革した。
●尋常師範学校を全国の各府県に一校ずつ置くことにして、高い質の教育を確保した。
●教師の気質を順良・信愛・威重の三つとし、そうした気質を育成するために師範教育を改革した。そのために軍隊式の教育が採用された。
●師範学校の卒業生は授業料は無償とする一方、一定期間その県での教員として務めることを義務づけた。なかでも師範学校入学生の一部を郡区長推薦によるものとし、彼らは推薦された郡区の教員となることになったのである。

 こうした師範教育の改革により、ムラの俊秀、就中地主の次三男などが師範学校に進み、国家的訓練を受けて村の教師として帰ってくるというシステムができあがった。

●ムラの俊秀→師範学校(国家の教師として訓練される)→村の教師として帰ってくる→国家の教師として子どもに臣民教育を施す

○市町村制という地域再編・国家への統合
○中学校をめぐる闘いの終焉

4.国家的暴力における地域の活用
◎戦争とナショナリズム
地方改良運動
posted by 新谷恭明 at 14:56| Comment(0) | 研究雑感 | 更新情報をチェックする

県立大学公開講座(2)

2.ムラの解体と再編と学校の役割
◎村の学校
○近代学校の登場と学校の焼き討ち
 明治6(1873)年夏。西日本一帯で百姓一揆が群発した。福岡では筑前竹槍一揆という呼び方で知られている。これらの一揆の特徴は近世における一揆とは基本的にちがったものであった。近世の一揆は年貢の見直しを要求するものが多かったが、この時の一揆は明治新政府の政策に対する反対一揆という性格のものであったからだ。「地租改正反対」「徴兵令反対」「旧藩主御帰国」「学制反対」「解放令反対」等々である。
 福岡の筑前竹槍一揆については「解放令反対一揆」という視点から知られていると思うが、実際はこれらの要求がみな入っていたものである。「学制反対」が掲げられていることもあって、学校は焼き討ちのターゲットになっていた。これらの政治的要求はバラバラのものではなくて共通する民意を含んでいたが故に意味がある。それは従来のムラの生活を壊すものに対する怯えであった。
 典型的なのはこれらの一揆の中で血税一揆と呼ばれたものである。これは徴兵令に反対する一揆なのだが、軍事は武士のこととして暮らしてきた農民たちにとって徴兵令は理解しがたいものであった。『徴兵告諭』の中に次の一節がある。
「...是レ上下ヲ平均シ人権ヲ斉一ニスル道ニシテ則チ兵農ヲ合一ニスル基ナリ是ニ於テ士ハ従前ノ士ニ非ス民ハ従前ノ民ニアラス均シク 皇国一般ノ民ニシテ国ニ報スルノ道モ固ヨリ其別ナカルヘシ凡ソ天地ノ間一事一物トシテ税アラサルハナシ以テ国用ニ充ツ然ラハ則チ人タルモノ固ヨリ心力ヲ尽シ国ニ報セサルヘカラス西人之ヲ称シテ血税ト云フ其生血ヲ以テ国ニ報スルノ謂ナリ...」
 この「西人之ヲ称シテ血税ト云フ其生血ヲ以テ国ニ報スル」の部分を文字通り西洋人に生き血を取られるというふうに曲解し、その恐怖心から一揆となったのである。
 被差別部落も学校も同様に当時の人々にとっては彼らの生活世界に侵入してくる異界のものと映ったのである。

○「教える」と「学ぶ」の対立
 学校に関して言えば、寺子屋と小学校は全く存立の論理と学びの論理が異なっている。近代小学校は御上の指図によって作られるものであり、自分たちの必要によって作られるものではなかった。
●学校は定時に始まり、遅れると「遅刻」として非難される。
●学ぶのは国によって用意された教科である。
●テキストは当初は教師から提示された。ただ、それは将来的に国が決めるものとして考えられていた。つまり国家の期待する国民に必要なものとして選択される。ニーズは教える側にある。
●教科及び教科書はすべての子どもたちに共通のものを扱うことにしたため、みんなの役に立ちそうだが、誰の役にも立たないものが並ぶことになった。
●授業は教師と子どもの一対多数の関係で行われる。
○自然村の解体と行政村への再編
 学校の設置(=学制の制定)は大区小区制と並行して進められた。これは従来のムラの秩序を解体して新たな国家の秩序にムラを再編する役割を持っていた。
 幕藩体制は幕府と藩の関係で成り立っており、藩はムラの行政には深く立ち入らなかった。藩は年貢を回収できればいいのだし、村役人は年貢をとりまとめればよかったのである。藩が管理するのは村役人までで、二重の支配構造が近世的秩序の原理であったと考えてよい。
 しかし、身分制度を廃止し、近代国家を構築しなくてはならない新政府にとって、その近代化政策を揺るがすものは近世的なムラの秩序であった。これを解体して国家の秩序に再編することが明治維新の原理だったのだ。大政奉還は変革の第一歩に過ぎず、歴史的な転換は廃藩置県であり、それに続く身分制度の廃止、大区小区制によるムラの解体、そして学校教育の普及だったのだ。

○続く廃藩置県
 民権私塾という幻影
 福岡の中学をめぐる闘い
posted by 新谷恭明 at 14:55| Comment(0) | 研究雑感 | 更新情報をチェックする