2017年12月31日

梅根悟を批判した人物

 「朝日新聞」1955年1月10日付の「論壇」に梅根悟が「「道徳教育」の疑問  後退する“民主主義の徹底”」という文章を書いている。近ごろ自由党も民主党も(この年合体して自由民主党になる)その政府もここ数年、道議の高揚、道徳教育の振興を叫び続けているとし、その理由を問い、批判している文章だ。梅根の論は日本の二大保守政党とその政府は道徳の信仰に熱心だが、中身にはほとんど触れていない。あたかも道徳といえば一つしかないとでもいうようだが、実はそうではない。道徳的価値観は対立している、と指摘し、先年の教育二法も教育の中立性を言うが、じつは対立する道徳の教育の一方を排除するものでしかないという。そして道徳教育を言うことで言わなくなったのは「民主主義」だと言う。保守政党・文部省は民主主義、基本的人権、平等、平和という言葉を避けているとみるのだ。
 そして民主主義は一つの道徳原理であり、教育は民主主義の道徳教育を中核とし、それを担当するのが社会科だと言い、それをよりよくすることが大事だ、とする。しかし、政府は社会科を改訂することで民主主義の道徳教育をやめようとしていると批判するのだ。ここで「道徳教育」は「民主主義」の反対概念である、とまで言い、民主主義をやめるかどうかが新年にあたっての国民の決断すべきことだと締めくくっている。まさに今も問われている問題でもある。
 これに対して1月18日付に太田和彦なる人物が「「道徳教育の疑問」の疑問 新教育の仲介業者こそ反省せよ」という文章を論壇に載せている。肩書きは群馬大学教授兼付属小学校長で、「投稿」とある。おそらく梅根の記事を読んで反論を綴ったものだろう。
 太田は梅根の文章を現場教師の憤りを代弁するものとして評価しはする。戦後から今まで戦前とは180度ちがったしつけをするのに苦労してきた。しかし、ここに来てまた逆方向へ転換されるのでは溜まったものではないというのだが、ここまで民主主義的な新教育を勧めてきたのは文部省の役人と教育学者であり、彼等は新教育ブローカーのようなものだと決めつける。そして政府が右展開してきたが、まずは民主主義は国民にも教師にも定着したとみなしている。ただ、太田は、自分は新教育のすべてを肯定するわけではないと立場を示す。そして、戦後、米国西部山間地に流行した進歩派の教育思想だけを国内に流布させたと見る。そしてその思想が「いとも安易に、ほとんど自明的であるかのように、教育勅語の位置を占めてしまった」と批判するのである。
 「道徳教育を要望する理由、というよりスキが、新教育輸入の仕方そのもののなかに、実はひそんでいたのではないか」とたたみかける。当初の仲介業者である教育学者にはそこを反省してほしい。今の政府の悪口を言うのは「かえりみて、他を言う」ように思えると締めくくっている。
 太田は何を言いたかったのか。梅根たちの新教育理論(プラグマチズム)が「教育勅語の位置」についてしまったことへの批判なのだろう。梅根と太田は共に旧徳目主義に反対していることはそれぞれの文面で明らかである。太田が新教育仲介業者と決めつけている人たちの思想的行動は果たして民主主義であったのか。無批判に米国西部山間地の特定の教育思想の引き写しだったのか。
 梅根はその後太田に反論したのだろうか。その後の「論壇」にはまだ見つけていない。梅根に比して太田は(今では)無名である。ちと、太田について知りたくなった。

19550110.jpg梅根の意見
太田の批判19550118.jpg
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2017年12月21日

長いものには・・・という価値観

 『朝日新聞』によると米軍普天間飛行場近くの保育園に連日、中傷メールや電話が舞い込んでくるのだそうだ(「米軍ヘリ部品発見の保育園、中傷メール・電話が相次ぐ」『朝日新聞デジタル』2017年12月16日11時55分 小山謙太郎署名)。記事からメールや電話の内容を抜き取ると、「自分たちでやったんだろう」「教育者として恥ずかしくないのか」「自作自演だ」「そんなところに保育園があるのが悪い」というようなものらしい。
 さらに翌日の記事には同じ宜野湾市の小学校にも「事故はやらせではないか」「沖縄は基地で生活している。ヘリから物が落ちて子供に何かあっても仕方ないじゃないか」「沖縄人は戦闘機とともに生きる道を選んだのだろう」という内容の中傷電話がかかってきているという(「仕方ない・やらせだ・・・中傷電話、ヘリ窓落下の小学校にも」同 2017年12月20日1時42分)。
 日本の文化の中に、というより日本人の生き方の中に「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」というようなものがあるような気がしている。それはずっとずっと前の頃から感じていたことだ。ただ、「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」と言い聞かせておとなしくしているのならば、それはそれでとかく責めようとは思わない。自分もまたそのようにして人生の過半は過ごしてきたからだ。
 しかし、理由を深く考えずにともかく権力に近い方からの空気を察して異論を攻撃する人たちが常に保守派にいる。かつて、某市で有害な化学物質について、環境保護派の議員から意見が出されたとき、保守派の議員から「そんなものは考えすぎだ。」「気にしすぎだ、安全なのだ」という意見が出された。しかし、政府が内分泌攪乱物質いわゆる環境ホルモンの害を指摘したところ、ころりと態度を変えて来たとともに、「あれは悪かった」と謝罪してきたそうな。
 こういうタイプの人はそれなりに人生経験を積んできたと思われる人たちにもけっこういる。おそらくはそのように権力ないしは(上)に阿て生きてきたのだろう。以前の職場にも多々いた。自称する知的レベルとも関係ないようだ。心のレベルの問題なのだ。
 こうした人たちは実に熱心に根拠なく権力側の代弁をしてくれる。そして権力側が見解を変えると狼狽えて自分もまた乗り換える、というふうにだ。安倍政権が沖縄いじめをしている現在、芸人には会っても、知事とは忙しくて会えないといういかにも中学生のいじめと同じ手口のいじめをしている現在、これに便乗するのがこうした手合いの連中だ。
 こういう「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」という生き方は日本人だけではないようだ。小熊英二が「弱者への攻撃 なぜ苛立つのか」(『朝日新聞』論壇時評 2017年12月21日)が木村忠正の発言を牽いて説明している。ヘイトスピーチのような弱者いじめは彼らがマジョリティとして満たされていないと感じているからなのだという。そうなのだ。彼らは常に満たされていないから弱い者に当たるし、自らの弱点は権力の後ろ盾でなんとかしようとする。そのようにしか生きてこられなかったのだ。
 例えば、安倍首相と加計学園の問題を採りあげると、「もうそんなことは議論する必要はない」と批判をつぶしにかかる方々がいる。そういう人たちはしばしば清廉な人たちでもある。ご自身は何の利権も得てないのに利権で潤っている人を庇おうとするのはなぜだろうか。それは彼らが清廉であるからなのだろう。清廉であるが故に清貧に甘んじてきたから、さらに弱い人たちが権利を主張するのが許せないのだ。
 小熊はドイツや中国にもそうした行動様式があることを指摘し、日本に限った事象ではないことを説明し、彼らのいらだちを弱者に向けるのを押しとどめることを提案している。僕もそう思う。
「あなたは利権を得ていない。わたしも得ていない。だからそれはわたしたちの利益の問題ではなくて、安倍の利益の問題だ。」「沖縄によってあなたは何の利益も得ていない。だからあなたが沖縄を責める必要はない。アメリカと安倍の利益の問題だ。」
 
posted by 新谷恭明 at 14:14| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年12月06日

文科省だけの問題かもしれないが

 講義のために学習指導要領を読み、その前の答申を読み、学習指導要領解説なるものを読み、頭がぐにゃぐにゃになりつつある。この夏に学習指導要領について論文を書こうと思ったが、挫折したのはこのどうしようもない悪文どもにつきあうのには余りに夏は暑かったからである。
 今、悪文と書いたが、どうして文科省関係者はこのように同じような似たような言葉を繰り返し繰り返し語順を変え、微妙に表現を変え、してだらだらと長ったらしい文書にするのであろうか。ここに引用して紹介したいが、引用するには長すぎるだらだらぶりであるから、それもできない。
 同じ単語が頻繁に使われている感じがするのでそこから見てみようか。『小学校学習指導要領解説 総則編』なる148頁(表紙も含む)からなる文書がある。これは「学習指導要領」の「総則」の部分だけの解説である。「総則」は「学習指導要領」の6頁~16頁までの11頁なので、その解説に14倍の紙数を費消しているのである。おそらく濃密な解説になっているのだろうとこれを繙いてみる。今回の改訂の目玉は「主体的・対話的で深い学び」であったから、「主体的」という言葉を検索してみた。そうしたら102箇所あった。ページをめくるたびに「主体的」という言葉に出くわすという感じだ。次に「資質・能力」を検索したらなんと153回登場する。1頁に1回以上出てくることになる。さらに「よりよい」という形容詞を検索すると41、「よりよく」という副詞は21。つまり、「よりよい」「よりよく」が62箇所に登場するのである。「豊かな」という形容詞も60、頻繁に出てくる。相当に耳障りなのである。ふつうまともに文章を書いた人ならば同じ形容詞は繰り返し使わないものだ。しかし、「よりよい」とか「豊かな」という形容詞は学習指導要領の中で重要なキーワードとなっているらしいので言い換えはしないのであろう。しかし、「よりよい」とか「豊かな」という実に主観的で且つあいまいな形容表現が「文科省用語」として流通しているのである。動詞では「求められる」が78回出てくる。ちなみに「三つ」という数詞も30箇所あった。
 もちろん均等に登場するのではない。密度の濃いところは濃いだろう。殊に形容詞が多いのは耳に触るところが大である。
で、学習指導要領もたいへんなものだ。

 「総則」の「第2 教育課程の編成 1 各学校の教育目標と教育課程の編成」の冒頭である。
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 教育課程の編成に当たっては,学校教育全体や各教科等における指導を通して育成を目指す資質・能力を踏まえつつ,各学校の教育目標を明確にするとともに,教育課程の編成についての基本的な方針が家庭や地域とも共有されるよう努めるものとする。その際,第5章総合的な学習の時間の第2の1に基づき定められる目標との関連を図るものとする。
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 まず、「教育課程の編成に当っては~」と始まる。教育課程を編成するときに注意しなくてはならないことが述べられるのだろう。それは、「①○○を通して」「②○○を踏まえつつ」「③○○とともに」「④教育課程の編成についての~」という構文である(便宜上①~④の目印を付けた)。
 「通して」「踏まえつつ」「とともに」という修飾的文節を除けば、「教育課程の編成に当っては~④教育課程の編成についての基本的な方針が家庭や地域とも共有されるよう努めるものとする。」という文なのだ。しかも、これに「⑤○○との関連を図るものとする」という修飾がくっつく。④が主たる文節かといえば、そうでもない。なぜなら「基本的な方針が家庭や地域とも共有される」と「とも」という助詞がついているから「基本的方針」のしっかり座っている場所が見当たらないのである。
 肝腎の「基本的な方針」はどこで作られるのであろうか。それは①~⑤の修飾部分のことなのか、続きの「2 教科等横断的な視点に立った資質・能力の育成」ないしは「3 教育課程の編成における共通的事項」に書かれていることなのか、その辺りはよくわからない。ここ以外に教育課程の基本的な方針に言及しているところはない。
 とするとやはり①~⑤の中に方針を求めることになるが、「通して」も「踏まえつつ」も「とともに」も、そして「関連を図る」ものも基本的な方針に添えられる位置づけだから困ってしまう。本体がないのだ。基本的方針として何を立てるかについて明示されていないので、読む方としてはいろいろと忖度しなければならなくなるのである。
 困ったときには「解説」を参照しよう。「小学校学習指導要領解説 総則編」ではまず次のようにこの項目の意味が解説される。
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 本項は,各学校における教育課程の編成に当たって重要となる各学校の教育目標の設定と,教育課程の編成についての基本的な方針の家庭や地域との共有,総合的な学習の時間について各学校が定める目標との関連について示している。
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 先ほどの構文が崩れる。「通して」「踏まえつつ」「とともに」そして「関連を図る」という要素はそれぞれ位置づけがずれて説明される。「①通して」とされた「各教科等の指導」と「②踏まえて」なされるべきであった「資質・能力」は削られてしまった。
 そして、重要なのは「③各学校の目標設定」となっている。そして「基本的方針」は「とも」ではなく「との」共有関係に落ち着いてしまった。さらには「総合的な学習の時間の目標と⑤関連を図る」のは「基本的な方針」ではなくて、「各学校が定める目標」に変わってしまった。
 それでも解説になっているのは元の学習指導要領の文章も、解説の文章もとくに重要なことは言っていないということなのであろうか。もしくはこのように煙に巻くような叙述でしか言いようのない曖昧な内容なのか。
posted by 新谷恭明 at 23:56| Comment(0) | 研究雑感 | 更新情報をチェックする